あなたは専門家と科学者の違いを知っていますか?『信頼の条件 原発事故をめぐることば』感想

おはよう!こんにちは!こんばんは!KAIです。最近、漫画ばかり読んでいて活字に触れていないッ!これは由々しき事態デアルッ!

なのでちょっと硬めの本を読んでみました!それがこちら!!影浦峡先生の『信頼の条件 原発をめぐることば』です!

 

 

 

あらすじ

 

 2011年3月11日に起こった原発事故。その後の状況を通して科学、科学者、専門家への不信が表面化した。事実として誤った言説が跋扈し、あらうことか受け手である市民に責任転嫁が行われる始末である。専門家と呼ばれる人間のねじ曲がった論理構造に注目し、問題点をあぶりだした本書。科学が信頼を取り戻すために必要なリテラシーを説いた魂の論文、爆誕

 

感想

 

全部で100ページくらいなので割とすぐ読めました。安冨歩先生が一月万冊で紹介していたので読んでみたのですが、結構考えさせられる本です!2011年3月11日に起こった原発事故をめぐる「専門家」の言説について取り上げた本ですが、コロナをめぐる言説と似た構造だと思いました。

とりあえず、面白かったところをpickup!!

 

科学者と専門家の定義

 

本書の重要なキーワード、科学者専門家。この二つの定義は次のようなものであると著者は述べています(本書、p13)

科学者
新しことを探求し、自分の発言に挙証責任を負う人。「新しいことを探求し」といっても、何か大それたことを想像する必要はありません。何かがわからないときに、そのわからないことを理解しようと努める人を普通に想定すれば十分です。
専門家
ある領域に関してこれまで解明された知識や技術、ノウハウを十分に有している人。

この2つの定義を見たとき、何の違いがあるんだ??と思った人がいるかもしれません。そこで科学とは何かという問いに答えることでその違いが見えてきます。

 

科学とは何ぞや!?

 

科学とは何かという問いをめぐっては多くの議論があり、一概にこうとは言えないのが現実です。しかし、科学の性質や属性は一定の共通理解があると影浦氏は述べます(p11、強調KAI)

・科学は新しいことを扱う。「新しいこと」には、普通の意味で未知であるものだけでなく、既知だと思っていたことに新しい観点から理解を促すことも含まれます。既知の未解決問題に答えが与えられる場合も、問題そのものが新しい場合もあります。新しいことを扱うのですから、これまで十分に説明できなかった現象や例を重視することになります。
・科学的な主張をするときには、その主張を支えるデータや関連する知見を、主張するものが主張とともに提出する義務を負います。
・科学における主張は、それを支えるデータや過去の知見とともに、他の科学者が妥当性を検討できるような明確さと論理性を備えていることが求められます。

科学にはこのような性質を持っています。そしてその性質は科学的知識と関係しています。以下引用(p11~12、強調KAI)

それぞれの時代で「科学的事実」と認められていることは、あくまで、もっともらしい、あるいは現実的有効性の高い仮説です。科学においては、基本的に、それらがこれからもずっと「科学的事実」であり続けるかどうかはわからないという共通了解があります。(中略)……データやこれまでの知見とともに、他の科学者が妥当性を検討することができるようなかたちで提出することが一応の約束となっていることは、「科学的事実」が絶対的なものではなく、常に批判的検討の対象となることを受け入れていることと対応しています。

科学は時代が進み、別の有効性が高い仮説が提示されれば更新されるものであるということです。

そして他の科学者が検証しやすいようにデータ、論理性、他の関連性が高い知見を提出しなければならない。

多くの人が思っているような科学観とは違うのではないでしょうか。科学的事実は圧倒的に、絶対的に唯一無二の真理くらいに思っている人が多いと思います。科学的に○○です。と言われれば手も足も出ないというか………

しかし、科学とは現状分かっている範囲では、○○という仮説が成り立つ可能性が高いというものでしかないということが分かりました。それを踏まえて上述した専門家科学者の定義を見ていきます。

 

科学者と専門家の違い

 

ずばり!!分からないことに対する対処、態度が違うと言えます。

科学者は分からないことを明らかにするために努力しますが、専門家は専門的知識の中で閉ざされています。

「知らない」ことを前提としているか、「知っている」という前提とするか

ざっくりいうとこんな感じです。

科学者は「知らない」前提なので、何か予測と違うことが起こった場合、仮説を揺り変えるべく努力し、それによって説明を試みます。

専門家は「知っている」前提なので、何か予測と違うことが起こった場合、自らが持っている専門知識で説明しようとします。

この違いはとても重要です。日本で起こった2011年の原発事故。この事故をめぐって発言した識者の中には、科学者としての態度ではなく、専門家としての態度をとったものがいました。

 

科学の限界は科学の勝利!?

 

原発事故では「想定外」という言葉が使われました。事故は常に「想定外」だろ……想定できる事故ってなんだよ……というツッコミは置いておいて、専門的知識の体系では起こりえなかったことが起こったわけです。

これに対して専門家はどのような態度をとったか。

ないものとして扱ったのです。

原発の専門知識の体系の中では、原発とは絶対安全の存在でした。事故によってそれが覆る事象を見ているのにもかかわらず、「絶対安全」という方向へ論理を展開しました。

『信頼の条件 原発事故をめぐることば』の中でたくさんの専門家たちの発言が引用されていますが、事故は大したことはなく、安全ですというものばかり。

専門的知識の体系を信奉するものにとって、それは権威であり、科学というより宗教です。専門の中で閉じて現実の問題を直視しない。これが当時の「専門家」と呼ばれていた人たちの態度でした。

科学的に分かっていないことは、科学の限界であり、決して科学の勝利ではありません。分かっていないというだけで、完全に科学によって解き明かされたわけではないのです。

コロナ禍によって、専門家と呼ばれる人がメディアで日々情報を発信しています。彼らが単なる専門家ではなく、科学者としての態度を持ち合わせているかどうか注意しなければいけません。

 

不安になる市民が悪い!?

 

誤解を与えたのであれば、謝罪申し上げる。最近、国会で耳にする言葉である。誤解したあなたが悪いのであって、私は悪くないんだからねっ!!というように聞こえてならない。

そもそも誤解させるようなことをしたお前が悪いやろ!!と思うのは僕だけだろうか。

このようなあたかも受け手である市民に責任があるかのような発言というのは原発事故でもあった。放射線で不安にならないで……と不安の種を生んだ政府が発表するのは笑えないコメディである。

事故を起こした側の責任を隠蔽しつつ、市民に責任転嫁することば……こういう専門家に注意です!!

彼らの発言をよく聞いて、馬鹿だなぁと鼻で笑ってあげましょう!

 

おわりに

 

コロナ禍をめぐり様々な立場の人間が様々な発言を繰り広げている今日この頃。本質的には原発事故のときと変わらないと考えていいと思います。

アメリカの○○大学卒業後、○○大学院で修士を取得、などというような肩書に騙されず、こいつの言っていること本当に正しいかと懐疑の目を向けることが大切だと思います。

本書の最後で影浦先生は専門家が科学的態度を取り戻し、それによって行動することが大切であると述べています。それだけではなく、受け手である市民の側もリテラシーを持ってニュースを見ていくというのが重要です。

原発事故のときの専門家の欺瞞に満ちた言語を取り扱った本は、『信頼の条件 原発をめぐることば』以外にも安冨歩先生の『原発危機と「東大話法」-傍観者の論理・欺瞞の言語-』というものもあります。この本もコロナ禍をめぐる言葉に関係していると思いますので、是非ご一読を!!

 

原発危機と「東大話法」―傍観者の論理・欺瞞の言語―
 

 

ゾンビがいようと君が好き!就職難!!ゾンビ取りガール①~②

おはよう!こんにちは!こんばんは!KAIです。コロナ禍によって日本経済は大打撃。不景気だと就職が大変。この年に就活を迎える若者は貧乏くじを引いた気分だろう。かくいう私もその一人。世知辛い世の中だぜ!そのような酷い状態でも仕事は選ばなければ案外就職できるかも!?例えばゾンビを取る仕事とか………というわけで福満しげゆき先生の就職難!!ゾンビ取りガール紹介していくぅ!

 

 

 

あらすじ

 

 死んだ人間がゾンビとなって街を徘徊する社会。主人公は「ゾンビバスターズ」という会社で働くサラリーマン。完全に肉体が腐ったゾンビを回収するお仕事。いまいち冴えない男の職場にかわいい女の子後輩が入ってきた!?先輩の運命はいかに!?

 

ゾンビの設定めちゃくちゃリアルです

 

 職場にかわいい女の子が入ってきて、一気に仕事が楽しくなるという経験は誰にもあると思う。しかし、就職難!!ゾンビ取りガールは単なる青春の1ページを切り取った漫画ではない。世界にゾンビが普通に存在しているという設定なのである!

街を歩くとゾンビが普通に歩いていて、人々はそれをよけながら日常を送る。ゾンビはこの漫画の世界の人々にとって台風みたいなものである。たまに訪れる災害であり、不運な人は死んでしまうという程度の認識。死んだ人間はそのままゾンビとなる世界であり、主に老人が多い。生前の肉体とゾンビの俊敏性は関係している。老人であれば体力がないので基本的にゾンビの動きはスローである。だからあんまり気にしてないのであるが、だとしても危機感なさすぎだろッ!案の定、劇中では若者ゾンビが出現し、めちゃめちゃに暴れるというシーンや突然変異で馬鹿力を持ったゾンビが登場する。

そうした世界でも、人々はあんまりパニックになっていない。しかも政府がゾンビの事件を隠していたり、対策を民間企業に任せたりと結構いい加減な対応。事なかれ主義の極致である。コロナ禍の政府の無能ぶりを知っている僕からすれば、めちゃめちゃリアルな設定だと思う。

淡々とゾンビがいる非日常的日常を描写する福満しげゆき先生は天才である。少し目を向ければ日常は決して当たり前ではなく、非日常的な世界が表裏一体となって存在しているというのをゾンビというモチーフによって分かりやすく表現している。

いやーすごい漫画を見つけてしまったぞ!!

 

ゾンビがいようと君が好き!?

 

この漫画はゾンビ取りという職場でのボーイミーツガールものである。

主人公の先輩は「ゾンビバスターズ」という企業で働くサラリーマン。ゾンビ取りにやりがいを感じ、ゾンビ取りの道具を日々開発するのが趣味。パッと見た感じ冴えない男であるが、ゾンビ取りに関しては情熱をもって臨んでいる。根暗な性格で冴えない感じが共感できる!!

そんな職場に女性の後輩が入ってくる。最初は辞めたいオーラを出していた彼女であったがゾンビ取りの仕事を先輩から教えてもらい、続けていく中でやりがいを感じるようになっていく。後輩ちゃんはゾンビをマシンガンで撃てると思って入社した結構クレイジーな女性である。イカレタ女性って素敵だよねッ!

先輩は後輩ちゃんが辞めないように必死でゾンビ取りの魅力を伝え、会話を盛り上げようとする。この辺の感じがすごくリアル。特に休日は何してるんですか?って先輩が後輩ちゃんに聞くあたりは刺さる人には刺さると思う……福満しげゆき先生は根暗な男の会話の感じを出すのが天才的にうまい!すげえ!

先輩くんは後輩ちゃんのことが好きで、甲斐甲斐しく仕事を教える。やっぱりゾンビが徘徊している世界だろうと、好きになっちまったもんはしょうがないね!好きなものは好き!非日常的日常でのボーイミーツガールが好きな人にはこの漫画オススメである!

 

実はバトル漫画要素あります!

 

 タイトルの通り、ゾンビとのバトルが展開されているのもこの漫画の面白さである。

上記した通り、若者ゾンビや突然変異ゾンビなどはめちゃめちゃ強い。それを捕獲するときの描写は凄まじい。HUNTER×HUNTERばりの心理描写が繰り広げられている。

ゾンビの挙動を見て、どう行動するか、ゾンビ取りの道具をどう使うか、頭をフル回転しながら後輩ちゃんと協力して戦う姿はまさにバトル漫画の主人公であるっ!

非日常的日常もあり、バトル漫画の要素もあり、一度で二度おいしい漫画である!!

 

おわりに

 

この漫画はゾンビが当たり前に存在する世界での日常を淡々と描写しつつ、メリハリのあるバトルも繰り広げられるジェットコースターみたいな作品である。

コロナ禍で就職が難しくなったと言われる今日この頃。仕事って案外、選ばなければたくさんあるし、大事なのは人間関係だよねっというのを教えてくれた漫画だった。

あーーー僕のバイト先にも後輩ちゃんが来ないかなー!!!!

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抽象的、観念的な言葉に気をつけよう。

 最近Twitterを見ていて思ったのが、右派左派問わず抽象的な言葉を目的に添える奴が多いなということである。

 日本のため、国益を守るため、社会のため、世間への配慮、常識がうんたら、将来のためetc……

 しかし、これらの言葉は空っぽである。日本とは何だろうか、国益とは何か、社会とは何を示しているか、世間とは誰か、常識とはどういったものか、将来はいつからいつまでで確約されているのか。何かを表しているようで、実はざっくりとした括りで適当なことを指しているに過ぎない。

 内田樹先生の本で身体性が伴わない言葉は危険だというのを読んだことがある。観念的な言葉を聞いても体は動かないが、現実に即した具体的な言葉だったらなんとなく筋肉の鼓動を感じるような気がする。

 社会や日本という言葉を使わず、友達や家族、今の生活のためというふうに翻訳した方がよっぽど健康的だろう。そうした方がより平和的だし、牧歌的でなんだか楽である。

 頭のいい人間ほどこうした抽象的で観念的な言葉を使うのが得意である。またそうした言葉を使って人々に啓蒙しようとする人たちは一定数いる。気をつけなければならない。何を指しているのか曖昧な言葉でなんとなく言いくるめられる可能性があるからだ。

 かといって知性を軽んじているわけではない。もちろん抽象的な言葉の中に真理があったりするのだろう。しかし、そうした言葉を目的や対象として置いている場合は注意しなければならない。

 

 

 

トランプ大統領、コロナにかかる

 トランプ大統領がコロナに感染したらしい。これは大きなニュースである。もしかしたらこのニュースは後世の歴史家達がイフストーリーで楽しむための一つの玩具になったかも!?

 アメリカでは今年の11月に大統領選が控えている。コロナにかかったということは世間への露出が減って選挙に不利に働くのではないか。マスクを付けずに集会を開いていたからイメージも悪い気がする。よって最近ちょっとずつ追い上げてきていた支持もバイデンに傾くのではないだろうか。

 こうしてトランプは選挙に負けて、バイデン大統領の誕生!!後世の歴史家達はもしトランプがコロナにかかっていなかったら大統領選はどうなっていたのかという妄想で楽しむのであった。。。

 もしくはトランプはコロナにかかっていたことを理由に選挙期間の延長を求め、なんなら大統領選に関わらず今の地位にしがみつく。。。というのは流石に飛躍しすぎか!

 ともかくこのニュースはかなりBIGである。まさにアメリカンサイズ!!第一次世界大戦後、ウィルソン大統領はスペイン風邪に感染して、アメリカ抜きでのパリ講和会議が開かれ、ドイツに多額の賠償金を請求する事態となった。それが次の大戦の火種となった。

 トランプ大統領のコロナの感染は歴史の分岐点であるに違いない。

 

 

世界、複雑すぎぃ

 夏休みに入り、今日で14日ほどたった。みなさんどのようにお過ごしだろうか。私はゼミ、バイト、読書を中心に生活している。

 

 ゼミの活動は今日で一区切りがつき(とはいってもやることはまだ結構あるけどねっ)、残りの夏休みは読書に明け暮れようと思う。

 

 夏休みで読んだ方は以下の8冊。

安冨歩、本條晴一郎『ハラスメントは連鎖する』

烏賀陽弘道フェイクニュースの見分け方』

深尾葉子『魂の脱植民地化とは何か』

安冨歩『合理的な神秘主義~生きるための思想史』

安冨歩『ジャパン・イズ・バックー安倍政権にみる近代日本「立場主義」の矛盾』

安冨歩マイケル・ジャクソンの思想』

安冨歩満州暴走隠された構造-大豆・満鉄・総力戦』

塩沢由典『複雑系経済学入門』

 

 このラインナップを見てもらえば分かるように私の中で安冨歩さんブームなのである。どの本も新しい気づきを与えてくれる!この方の本にもっと早く出会いたかった!!

 

 安冨歩氏は去年の参議院選挙でのれいわ新選組の初期メンバー10人のうちの一人であり、去年から知ってはいた。しかしこんなにも素晴らしい本を書くとは。。。MMTを掲げる政党としてれいわ新選組は結構注目していたつもりだったが、その中にこんな素晴らしい方がいるとはっ!見落としていた!失念っ!

 

 安冨さんはMMTには基本的に賛同していないし、なんなら国民国家を否定的に見ている方だから、れいわ新選組の中でもかなり異質である。そのような人物がれいわ新選組のメンバーとして活動しているわけであるから、めっちゃ懐の広い政党だなと思う(プロパガンダじゃないよっ、本心)。今、れいわ新選組はいろいろあって大変な時期であるが、このような多様性は失って欲しくないものである。

 

 さて、ここで、一冊ずつ書評でも書いていこうと思っていたのであるが、なんだかめんどくさくなってきた。本当は読んだらすぐ書くがベストッ!ここでは夏休みで読んだ本から学んだことをざっくり書いてみようと思う。

 

 まず、この社会は狂っているということ。狂人が正常なふりをしているのが現代社会である。

 人間は学校教育や親の「しつけ」によって自らの感性を抑圧し、感性(魂)の上に蓋を設け、その上に社会的な自分というものを作る。社会的な自分は、他人を気にし、世間を気にする。評価基準が自分の外にあるから、いつまでたっても満たされない。だから、多くの人間は過剰な労働、過剰な消費、酒、タバコ、気晴らしにふけって心の空白を埋めようとする。

 しかし一方で社会ではそうした人間が成功しやすい。徹底的に自分の感性を殺し、受験勉強を頑張った人間が、偏差値の高い大学に進学し、大企業、官僚、大手メディアに就職する。

 最初から自分の感性を殺す学校教育など相手にしていなければ幸いである。最悪なのが感性を殺しきれず、感性に正直になりきれない人間だろう(私のような人間)。感性を殺しきれば、官僚などのように権力のゾンビとして成功できたし、逆に最初から正直になっていればもっと楽しく生きてこれたのだろう。どちらでもないから、罪悪感を抱えながら楽しむという辛い道を歩んできたように思う。

 社会は自分の感性を殺した狂人たちが闊歩している。まるで自分は正常であるかのように。

 そうした状態から抜け出すにはやはり自分に正直に、感性を大事にして生きていくほかないのだろう。

 ここで感性を信じると人間は上手く生きていけないのでは!と思う人がいると思う。人間は欲深いし、ずるいし、卑怯な生き物であるから、人類全員が感性を開放なんかすれば地球は終わりだっ!と思う人はいると思う。人間の理性でコントロールする必要があるから社会は感性の抑圧を要求するのではないか。感性を殺すとまではいかなくてもある程度抑圧することで秩序が生まれるというのが一般的な考えだろう。

 しかし、その考えは間違っている。我々は理性を過大に評価しすぎている。

 17世紀ころ、ニュートンデカルトの登場は近代の方向性を決定づけた。ニュートン力学では現象を細かく分けて、その中の法則性を発見し、インプットに対してアウトプットが比例の関係にあるというような線形性のある方程式を作ることによって世界の全てを記述しようとした。このような世界観では、データを完全に揃えてしまえば、世界の行く末なども予見できるとされた。

 しかし、それが1970年代に入り、否定されるようになってくる。どうやら世界はそんなに単純ではなさそうだと。線形性のあると思われていた世界の中でも、かなり非線形的な現象が存在するということが分かってきた。人間一人をとってもかなり複雑であるというのが分かってきた。複雑系科学の誕生である。

 こうした科学の「世界複雑過ぎぃ!何もわからん」という態度にもかかわらず、人間は未だに計画を立て、人生を規定したがるということ、それが問題である。

 人間の理性によって、計画を立てて、全身全霊で邁進するというのが正しいとされている。しかし、科学が示しているように複雑すぎて明日のこともよくわからない、そのような状況で計画を立てることに意味はない。むしろ身体感覚や感性に任せる方がよい。なぜならば人間の身体は複雑すぎる世界に日々対応しているからである。

 人の欲深さやズルさなどというのはむしろ理性によって生まれるものである。食べ放題で食べ過ぎた経験は誰しもがあると思うが、気持ちよく店を出ることができるラインを体は知っているのにもかかわらず、食べ放題という環境に引っ張られて食べすぎてしまう。こうした事例が示しているように人間は身体や感性を無視しがちである。人間の理性などというのは実は大したものではないというのが分かる。

 20世紀、最も理性的な国家の1つがソ連だろう。彼らは資本主義によって起こる貧困、格差、恐慌を避けようとして、1国の経済を1つの工場に見立てて人間の理性によって計画を立て、管理しようとした。こうした結果何が起こったかは歴史が示している。経済もまた複雑すぎて分からんっ!!というものの1つである。

 世界は複雑すぎる。そんな世界を計画制御しようとしているから問題が起こる。原発事故や環境問題などはその典型である。

 計画制御できるという幻想は早々に捨てよう。そして自分の感性に正直に生きよう。計画がないと不安かもしれない。しかし案ずることなかれ。人間はこれまでそうやって生きてきたのだから。

 

 

生きる技法

生きる技法

  • 作者:安冨 歩
  • 発売日: 2011/12/23
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

語りえないことは沈黙しなければならない。

 この頃日本で流行るもの。コロナウイルス。虚言。差別。搾取。東大話法。ルー大柴ばりの英語。責任のなすりつけ合い。楽観論。投機的な取引。汚職。ヤリチン。ヤリマン。不倫。レイプ魔。欺瞞。無能な政府。職業倫理の欠如。なんかやってる感。世論操作に長けたマスコミ。正義と称したリンチ。思考停止野郎。ハラスメント。ネトウヨ

 この時代に生まれて令和を迎えたが、不思議なことばかり見聞きする。ここでは日本の人々が口ずさんでいる噂の十分の一を漏らしただけにすぎない。

 二条河原落書をパクって書いてみたが、結構言葉がいろいろ出てくるので自分でも驚いている。国が傾きかけているまさにその時に生きており、その歴史を間近で見れるのだから幸運かもしれない。

 Twitterを見ているとこの後に及んでまだ政権を批判するなと言っている人がいた。もう危機は迫っているから政権批判などしないで自己防衛に努めてください!というような中身ならまだ分かるが、検査数に比べて感染者が少ないので安心して的な中身であった。

 そのデータを見て、今後感染者が増えないとどうして言えるだろうか。今後、爆発的に増える可能性は考えられないだろうか(Go Toキャンペーンなどという愚策を実行しようとしているわけだし)。

 こうした楽観論は非常に危険である。しかし、Twitter上は幻想の中。みんなが見たい夢を見ている。そしてその夢が壊されそうになると噛み付いてくる。安倍政権を批判するな!日本を差別するな!というふうにである。

 なんだかあきれちゃう!しかも友達がそういうこと言ってるのを見てると特にね!

 私の高校時代の友達がまさにそういうツイートをし、リツイートをし、いいねを押しているのでびっくりしている。まじかよ。。。orz

 まあそんなことはどうでもいいのである。本題は社会は価値について語らなくなったということである。

 「人それぞれだよね」という言葉は無敵だ。真理である。人はそれぞれいろいろな考え方、価値観、宗教、思想を持っている。それをお互い尊重しましょう。人に迷惑をかけない限りは。というのがある種お決まりになってきている。

 さらには価値を語るのはなんだかダサいという風潮もある。これは日本だと多分、1980年代くらいからだと思うが、政治なんかに熱くなっちゃってる笑とか社会問題に関心持つ奴ってさwみたいな空気が全体的に醸し出されている。皮膚感覚ではあるが。

 社会は価値に関して語ることをやめ、個人はミクロの世界に閉じこもった。実存にうじうじ悩み、恋人が、親が、友達が、趣味がどうだとかについて終始するようになった。そんな気がする。

 その結果がこのザマである。人々は自分の頭で考えられなくなり、トップダウンで決めてくれる政府にすがるようになった。

 選択するのはとてもストレスがかかる。難しく、めんどくさい。だから人々は個人を支える社会の方向性を政府に委ね、しょーもない恋愛笑、友情笑、趣味笑、仕事笑にひたむきに頑張るように見せかけるわけである。

 どうせそんな奴らの恋愛感、友情感、趣味、仕事などは他の奴らと大差ない。あまりをキョロキョロ見ながらなんとなく決めているだけである。思考停止に陥っているからだ。まあ偏見だけどさッ!

 学校では相変わらず30年前と変わらず知識偏重の画一的で周りと同じであることを強いる教育を行なっている。その結果、周りの人間とのポジション取りにひたむきに取り組み、マウントを取り、それが幸せであると思い込む人間が大量にでき上がった。そして、組織や集団内での役割や立場を自分のアイデンティティだと勘違いし、なんとなく窮屈だけどそれが幸せなんだと勘違いする連中を量産した。人々は与えられたアイデンティティを踏みにじられたくないから必死で抵抗する。自分で育てたものではないのに(この辺の話は安冨歩先生が詳しく書いている)

 とにかく自分の頭で考えられない人間は多い気がする。それは前述した、学校教育の影響が大きいだろう。自分の感性を殺し、学校に適応して行こうと努力したものほどその傾向が強い。私もまた学校教育を割と真面目に受けてきたので、自分の頭で考えられているかどうかは怪しい。

 こうして人々は思考停止し、価値を語ることをやめた。そして我々はまさに価値を語らなくなった社会が崩壊していく様を見ているのだろう。

 価値観を語ること=価値観を押し付けることではない。価値観の押し付けの究極はファシズム社会主義国家のような全体主義である。

 だから価値観の押し付けは避けなければならない。一方で価値観に無関心な社会は、そのまま社会の無関心につながり、政治の無関心、弱者の無関心につながりかねない。

 どうすればいいか。最近私が注目しているのがウィトゲンシュタインである。彼は論理哲学論考の中で「語りえないことは沈黙しなければならない」と記述している。これはアリストテレス以来の哲学は言語の混同によって引き起こされたのであり、哲学の役割とは言語を正しく使えているかどうかを指摘するのにとどまる。故に、言語の役割を超えた部分においては沈黙しなければならないとした。

 ウィトゲンシュタインは語りえる部分と語りえない部分の境界を引こうとしたのである。

 価値観とは語りえる部分に入るのか、入らないのか。語りえる領域に入る場合、どこまでがその範囲なのか。語りえない場合、社会に置いてもはや価値について話し合う必要はなくなるのか。

 それらが最近の私の関心である。私は経済学部に所属しているが、経済学の体系は価値論から始まっている。そうであるから価値について考えることは経済学について考えることになるだろう。

 まだ少し知識をかじっただけの人間である。何か根本的におかしなことを言っている可能性がある。その時はコメントで教えてほしい。

 果たして、価値とは語りえるものか、語りえないものか。語りえないのならば沈黙しなければならない。そして社会は崩れ落ちる。

 

 

 

 

 

 

 

 

野菜のかき揚げと都知事選とエモいバンド

①野菜のかき揚

 今日はバイトが夜にあって中途半端な時間に夕食を食べたくないので、早めにバイト先に行き、丸亀製麺ぶっかけうどんと天ぷらを食べました。

 うどんはヘルシーでカロリーがそんなに高くないのに満足感がある食べ物です。天ぷらは、野菜のかき揚げ、かしわ天、春巻きをチョイスしました。天ぷらの中に春巻きあるやん!珍し!!と思ったので春巻きを選び、後は適当に選んで合計720円。

 安い!美味い!さっさと食える!というファストフードの三原則をしっかりと遵守した、そんな丸亀製麺でした。全ての食に感謝。

 最近、ダイエットをしていてそういえば全部で何キロカロリーあるんだろうと思って、調べてみたらなんとびっくり1300キロカロリーぶっかけうどん、春巻き、かしわ天までは600キロカロリーくらいでまあそんなもんか、今日は何も食べてないしなくらいに思っていたのですが、野菜のかき揚げが690キロカロリーくらいある。。。だと。。。

 フリーザの戦闘力53万くらいの衝撃!

 Dioのスタンドが時を止める能力だったのを知ったときの驚き!

 藍染を倒したと思ったら雛森だったくらいの絶望!いやこれはそんなに絶望してないか。

 野菜のかき揚げはどうやらめちゃくちゃカロリーが高いので皆さん食べ過ぎには気をつけましょう。

 

都知事

 そういえば、最近小池百合子さんが都知事選で勝利し再選されました!おめでとうございます!なんだか涙が出そうです!

 小池百合子さんといえばカイロ大学で学んだ堪能な外国語を用いて都民のために一生懸命働いておられる方です。まるで意識高い系大学生みたいな語彙力なんですよこれが!おっと。

 さらには公約達成ゼロで当選という歴史的な快挙です!都民はちょろいですね!当選した後すぐに東京都の感染者は200人を超えております。でも、都が助けてくれると思わないで!これからはユリッペの言うように「自粛から自衛の時代」だから!みんな等しくコロナの死の踊りに付き合ってサタデーナイトフィーバー!!!ジュリアナ東京は終わらない!

 都民の阿鼻叫喚を肴に酒が上手くなるんだろうなぁ。これからが楽しみです。でもしょうがないよね、都民の決断だもの。

 小池百合子様万歳!ありがとう!これからもなんかやってる感を出して長いこと都知事を務めて、弱者を切り捨てて、搾り取って、総理大臣まで駆け上がって下さい!

 日本の未来は明るいなぁ!

 

③エモいバンド

 最近ようやくエモいという言葉が馴染んできた。最初聞いた時、まるでその実感がないので、どういう状態を表す言葉か分からず適当に使っていたが、ようやく分かりかけてきた。

 私の中ではようはゾクゾクくるような感覚がエモいってことなのかなと思う。

 言葉だけが一人歩きして、実感が湧かないというのは良くあるが、分かったときは気持ちいいね!!私の中では、サンホラ、マキシマムザホルモンブルーハーツとかを聞いた時にあーエモいなぁと感じるのである(たまに筋肉少女帯)。

 先週、山田玲司ヤングサンデーでエモいについて取り上げていた。エモいとは何か、その歴史とゼロ年代批判的なことをやっていたが、やっぱり定義が曖昧なのでジョジョ3部のスタンド、ジャスティスを相手にしているかのような感じであった。

 ウィトゲンシュタインソクラテス以来の哲学は言語の混同によって混乱が生じているとして批判していたが、使う言語の定義が人それぞれ違うというまさしくそんな感じの番組の流れであった。

 しかし、その中でおっくんが狭義のエモについて述べていて、めちゃくちゃ納得した。

 暇を持て余した四大卒の書いた薄い詩

 未来に行くわけではなく過去を懐かしむ感じ

 なんちゃって諸行無常

的な感じの定義であった(ちょっと見てから時間が経っているので過不足あるかもしれない)。

 みんなが好きなロックバンドを聴いても自分のことを歌っている実感がなく、ただの音の羅列に聴こえる時がある。そういう時の歌詞は、なんだかキラキラしているし、青春感あるし、メンヘラ感あるしで、何も響いていない。

 みんなは熱狂していて、それに合わせてはしゃいでみせるが心は奮い立たない。それが俺は変わっていて、社会不適合者なのかなと思っていた。他者との断絶を感じていた。

 おっくんの狭義のエモを聴いて、なんだか救われたような気がする。なんだ、俺と似たようなこと思ってるやついるやんけ!

 ダサいし、浅いし、陽キャぶってるし、自己憐憫だし!そのくせ社会問題には関心がなく、半径3メートルの感性で完結してるし!

 こんな曲が心に響くわけない!(何とは言わない)

 その点、俺の好きなバンドは違う!サンホラは圧倒的メロディセンスと歴史、神話、思想を感じられる!マキシマムザホルモンはユーモアと亮君の独特の感性が癖になる!ブルーハーツは傷つきながらも素朴に生きていこうという人間賛歌感がある!

 別におっくんの言う狭義のエモを歌うバンドを馬鹿にしたり、下に見ているわけではない。俺には刺さらなかったというだけである。

 今後は他人なんかと比べずに、自分の中のエモを育てていきたいと思えるそんな回であった。🖕🖕