あなたは専門家と科学者の違いを知っていますか?『信頼の条件 原発事故をめぐることば』感想
あらすじ
感想
科学者と専門家の定義
科学とは何ぞや!?
科学者と専門家の違い
科学の限界は科学の勝利!?
不安になる市民が悪い!?
おわりに
ゾンビがいようと君が好き!就職難!!ゾンビ取りガール①~②
おはよう!こんにちは!こんばんは!KAIです。コロナ禍によって日本経済は大打撃。不景気だと就職が大変。この年に就活を迎える若者は貧乏くじを引いた気分だろう。かくいう私もその一人。世知辛い世の中だぜ!そのような酷い状態でも仕事は選ばなければ案外就職できるかも!?例えばゾンビを取る仕事とか………というわけで福満しげゆき先生の就職難!!ゾンビ取りガール紹介していくぅ!
あらすじ
ゾンビの設定めちゃくちゃリアルです
ゾンビがいようと君が好き!?
実はバトル漫画要素あります!
おわりに
抽象的、観念的な言葉に気をつけよう。
最近Twitterを見ていて思ったのが、右派左派問わず抽象的な言葉を目的に添える奴が多いなということである。
日本のため、国益を守るため、社会のため、世間への配慮、常識がうんたら、将来のためetc……
しかし、これらの言葉は空っぽである。日本とは何だろうか、国益とは何か、社会とは何を示しているか、世間とは誰か、常識とはどういったものか、将来はいつからいつまでで確約されているのか。何かを表しているようで、実はざっくりとした括りで適当なことを指しているに過ぎない。
内田樹先生の本で身体性が伴わない言葉は危険だというのを読んだことがある。観念的な言葉を聞いても体は動かないが、現実に即した具体的な言葉だったらなんとなく筋肉の鼓動を感じるような気がする。
社会や日本という言葉を使わず、友達や家族、今の生活のためというふうに翻訳した方がよっぽど健康的だろう。そうした方がより平和的だし、牧歌的でなんだか楽である。
頭のいい人間ほどこうした抽象的で観念的な言葉を使うのが得意である。またそうした言葉を使って人々に啓蒙しようとする人たちは一定数いる。気をつけなければならない。何を指しているのか曖昧な言葉でなんとなく言いくるめられる可能性があるからだ。
かといって知性を軽んじているわけではない。もちろん抽象的な言葉の中に真理があったりするのだろう。しかし、そうした言葉を目的や対象として置いている場合は注意しなければならない。
トランプ大統領、コロナにかかる
トランプ大統領がコロナに感染したらしい。これは大きなニュースである。もしかしたらこのニュースは後世の歴史家達がイフストーリーで楽しむための一つの玩具になったかも!?
アメリカでは今年の11月に大統領選が控えている。コロナにかかったということは世間への露出が減って選挙に不利に働くのではないか。マスクを付けずに集会を開いていたからイメージも悪い気がする。よって最近ちょっとずつ追い上げてきていた支持もバイデンに傾くのではないだろうか。
こうしてトランプは選挙に負けて、バイデン大統領の誕生!!後世の歴史家達はもしトランプがコロナにかかっていなかったら大統領選はどうなっていたのかという妄想で楽しむのであった。。。
もしくはトランプはコロナにかかっていたことを理由に選挙期間の延長を求め、なんなら大統領選に関わらず今の地位にしがみつく。。。というのは流石に飛躍しすぎか!
ともかくこのニュースはかなりBIGである。まさにアメリカンサイズ!!第一次世界大戦後、ウィルソン大統領はスペイン風邪に感染して、アメリカ抜きでのパリ講和会議が開かれ、ドイツに多額の賠償金を請求する事態となった。それが次の大戦の火種となった。
トランプ大統領のコロナの感染は歴史の分岐点であるに違いない。
世界、複雑すぎぃ
夏休みに入り、今日で14日ほどたった。みなさんどのようにお過ごしだろうか。私はゼミ、バイト、読書を中心に生活している。
ゼミの活動は今日で一区切りがつき(とはいってもやることはまだ結構あるけどねっ)、残りの夏休みは読書に明け暮れようと思う。
夏休みで読んだ方は以下の8冊。
安冨歩、本條晴一郎『ハラスメントは連鎖する』
深尾葉子『魂の脱植民地化とは何か』
安冨歩『ジャパン・イズ・バックー安倍政権にみる近代日本「立場主義」の矛盾』
安冨歩『マイケル・ジャクソンの思想』
塩沢由典『複雑系経済学入門』
このラインナップを見てもらえば分かるように私の中で安冨歩さんブームなのである。どの本も新しい気づきを与えてくれる!この方の本にもっと早く出会いたかった!!
安冨歩氏は去年の参議院選挙でのれいわ新選組の初期メンバー10人のうちの一人であり、去年から知ってはいた。しかしこんなにも素晴らしい本を書くとは。。。MMTを掲げる政党としてれいわ新選組は結構注目していたつもりだったが、その中にこんな素晴らしい方がいるとはっ!見落としていた!失念っ!
安冨さんはMMTには基本的に賛同していないし、なんなら国民国家を否定的に見ている方だから、れいわ新選組の中でもかなり異質である。そのような人物がれいわ新選組のメンバーとして活動しているわけであるから、めっちゃ懐の広い政党だなと思う(プロパガンダじゃないよっ、本心)。今、れいわ新選組はいろいろあって大変な時期であるが、このような多様性は失って欲しくないものである。
さて、ここで、一冊ずつ書評でも書いていこうと思っていたのであるが、なんだかめんどくさくなってきた。本当は読んだらすぐ書くがベストッ!ここでは夏休みで読んだ本から学んだことをざっくり書いてみようと思う。
まず、この社会は狂っているということ。狂人が正常なふりをしているのが現代社会である。
人間は学校教育や親の「しつけ」によって自らの感性を抑圧し、感性(魂)の上に蓋を設け、その上に社会的な自分というものを作る。社会的な自分は、他人を気にし、世間を気にする。評価基準が自分の外にあるから、いつまでたっても満たされない。だから、多くの人間は過剰な労働、過剰な消費、酒、タバコ、気晴らしにふけって心の空白を埋めようとする。
しかし一方で社会ではそうした人間が成功しやすい。徹底的に自分の感性を殺し、受験勉強を頑張った人間が、偏差値の高い大学に進学し、大企業、官僚、大手メディアに就職する。
最初から自分の感性を殺す学校教育など相手にしていなければ幸いである。最悪なのが感性を殺しきれず、感性に正直になりきれない人間だろう(私のような人間)。感性を殺しきれば、官僚などのように権力のゾンビとして成功できたし、逆に最初から正直になっていればもっと楽しく生きてこれたのだろう。どちらでもないから、罪悪感を抱えながら楽しむという辛い道を歩んできたように思う。
社会は自分の感性を殺した狂人たちが闊歩している。まるで自分は正常であるかのように。
そうした状態から抜け出すにはやはり自分に正直に、感性を大事にして生きていくほかないのだろう。
ここで感性を信じると人間は上手く生きていけないのでは!と思う人がいると思う。人間は欲深いし、ずるいし、卑怯な生き物であるから、人類全員が感性を開放なんかすれば地球は終わりだっ!と思う人はいると思う。人間の理性でコントロールする必要があるから社会は感性の抑圧を要求するのではないか。感性を殺すとまではいかなくてもある程度抑圧することで秩序が生まれるというのが一般的な考えだろう。
しかし、その考えは間違っている。我々は理性を過大に評価しすぎている。
17世紀ころ、ニュートン、デカルトの登場は近代の方向性を決定づけた。ニュートン力学では現象を細かく分けて、その中の法則性を発見し、インプットに対してアウトプットが比例の関係にあるというような線形性のある方程式を作ることによって世界の全てを記述しようとした。このような世界観では、データを完全に揃えてしまえば、世界の行く末なども予見できるとされた。
しかし、それが1970年代に入り、否定されるようになってくる。どうやら世界はそんなに単純ではなさそうだと。線形性のあると思われていた世界の中でも、かなり非線形的な現象が存在するということが分かってきた。人間一人をとってもかなり複雑であるというのが分かってきた。複雑系科学の誕生である。
こうした科学の「世界複雑過ぎぃ!何もわからん」という態度にもかかわらず、人間は未だに計画を立て、人生を規定したがるということ、それが問題である。
人間の理性によって、計画を立てて、全身全霊で邁進するというのが正しいとされている。しかし、科学が示しているように複雑すぎて明日のこともよくわからない、そのような状況で計画を立てることに意味はない。むしろ身体感覚や感性に任せる方がよい。なぜならば人間の身体は複雑すぎる世界に日々対応しているからである。
人の欲深さやズルさなどというのはむしろ理性によって生まれるものである。食べ放題で食べ過ぎた経験は誰しもがあると思うが、気持ちよく店を出ることができるラインを体は知っているのにもかかわらず、食べ放題という環境に引っ張られて食べすぎてしまう。こうした事例が示しているように人間は身体や感性を無視しがちである。人間の理性などというのは実は大したものではないというのが分かる。
20世紀、最も理性的な国家の1つがソ連だろう。彼らは資本主義によって起こる貧困、格差、恐慌を避けようとして、1国の経済を1つの工場に見立てて人間の理性によって計画を立て、管理しようとした。こうした結果何が起こったかは歴史が示している。経済もまた複雑すぎて分からんっ!!というものの1つである。
世界は複雑すぎる。そんな世界を計画制御しようとしているから問題が起こる。原発事故や環境問題などはその典型である。
計画制御できるという幻想は早々に捨てよう。そして自分の感性に正直に生きよう。計画がないと不安かもしれない。しかし案ずることなかれ。人間はこれまでそうやって生きてきたのだから。
語りえないことは沈黙しなければならない。
この頃日本で流行るもの。コロナウイルス。虚言。差別。搾取。東大話法。ルー大柴ばりの英語。責任のなすりつけ合い。楽観論。投機的な取引。汚職。ヤリチン。ヤリマン。不倫。レイプ魔。欺瞞。無能な政府。職業倫理の欠如。なんかやってる感。世論操作に長けたマスコミ。正義と称したリンチ。思考停止野郎。ハラスメント。ネトウヨ。
この時代に生まれて令和を迎えたが、不思議なことばかり見聞きする。ここでは日本の人々が口ずさんでいる噂の十分の一を漏らしただけにすぎない。
二条河原落書をパクって書いてみたが、結構言葉がいろいろ出てくるので自分でも驚いている。国が傾きかけているまさにその時に生きており、その歴史を間近で見れるのだから幸運かもしれない。
Twitterを見ているとこの後に及んでまだ政権を批判するなと言っている人がいた。もう危機は迫っているから政権批判などしないで自己防衛に努めてください!というような中身ならまだ分かるが、検査数に比べて感染者が少ないので安心して的な中身であった。
そのデータを見て、今後感染者が増えないとどうして言えるだろうか。今後、爆発的に増える可能性は考えられないだろうか(Go Toキャンペーンなどという愚策を実行しようとしているわけだし)。
こうした楽観論は非常に危険である。しかし、Twitter上は幻想の中。みんなが見たい夢を見ている。そしてその夢が壊されそうになると噛み付いてくる。安倍政権を批判するな!日本を差別するな!というふうにである。
なんだかあきれちゃう!しかも友達がそういうこと言ってるのを見てると特にね!
私の高校時代の友達がまさにそういうツイートをし、リツイートをし、いいねを押しているのでびっくりしている。まじかよ。。。orz
まあそんなことはどうでもいいのである。本題は社会は価値について語らなくなったということである。
「人それぞれだよね」という言葉は無敵だ。真理である。人はそれぞれいろいろな考え方、価値観、宗教、思想を持っている。それをお互い尊重しましょう。人に迷惑をかけない限りは。というのがある種お決まりになってきている。
さらには価値を語るのはなんだかダサいという風潮もある。これは日本だと多分、1980年代くらいからだと思うが、政治なんかに熱くなっちゃってる笑とか社会問題に関心持つ奴ってさwみたいな空気が全体的に醸し出されている。皮膚感覚ではあるが。
社会は価値に関して語ることをやめ、個人はミクロの世界に閉じこもった。実存にうじうじ悩み、恋人が、親が、友達が、趣味がどうだとかについて終始するようになった。そんな気がする。
その結果がこのザマである。人々は自分の頭で考えられなくなり、トップダウンで決めてくれる政府にすがるようになった。
選択するのはとてもストレスがかかる。難しく、めんどくさい。だから人々は個人を支える社会の方向性を政府に委ね、しょーもない恋愛笑、友情笑、趣味笑、仕事笑にひたむきに頑張るように見せかけるわけである。
どうせそんな奴らの恋愛感、友情感、趣味、仕事などは他の奴らと大差ない。あまりをキョロキョロ見ながらなんとなく決めているだけである。思考停止に陥っているからだ。まあ偏見だけどさッ!
学校では相変わらず30年前と変わらず知識偏重の画一的で周りと同じであることを強いる教育を行なっている。その結果、周りの人間とのポジション取りにひたむきに取り組み、マウントを取り、それが幸せであると思い込む人間が大量にでき上がった。そして、組織や集団内での役割や立場を自分のアイデンティティだと勘違いし、なんとなく窮屈だけどそれが幸せなんだと勘違いする連中を量産した。人々は与えられたアイデンティティを踏みにじられたくないから必死で抵抗する。自分で育てたものではないのに(この辺の話は安冨歩先生が詳しく書いている)
とにかく自分の頭で考えられない人間は多い気がする。それは前述した、学校教育の影響が大きいだろう。自分の感性を殺し、学校に適応して行こうと努力したものほどその傾向が強い。私もまた学校教育を割と真面目に受けてきたので、自分の頭で考えられているかどうかは怪しい。
こうして人々は思考停止し、価値を語ることをやめた。そして我々はまさに価値を語らなくなった社会が崩壊していく様を見ているのだろう。
価値観を語ること=価値観を押し付けることではない。価値観の押し付けの究極はファシズムや社会主義国家のような全体主義である。
だから価値観の押し付けは避けなければならない。一方で価値観に無関心な社会は、そのまま社会の無関心につながり、政治の無関心、弱者の無関心につながりかねない。
どうすればいいか。最近私が注目しているのがウィトゲンシュタインである。彼は論理哲学論考の中で「語りえないことは沈黙しなければならない」と記述している。これはアリストテレス以来の哲学は言語の混同によって引き起こされたのであり、哲学の役割とは言語を正しく使えているかどうかを指摘するのにとどまる。故に、言語の役割を超えた部分においては沈黙しなければならないとした。
ウィトゲンシュタインは語りえる部分と語りえない部分の境界を引こうとしたのである。
価値観とは語りえる部分に入るのか、入らないのか。語りえる領域に入る場合、どこまでがその範囲なのか。語りえない場合、社会に置いてもはや価値について話し合う必要はなくなるのか。
それらが最近の私の関心である。私は経済学部に所属しているが、経済学の体系は価値論から始まっている。そうであるから価値について考えることは経済学について考えることになるだろう。
まだ少し知識をかじっただけの人間である。何か根本的におかしなことを言っている可能性がある。その時はコメントで教えてほしい。
果たして、価値とは語りえるものか、語りえないものか。語りえないのならば沈黙しなければならない。そして社会は崩れ落ちる。
野菜のかき揚げと都知事選とエモいバンド
①野菜のかき揚げ
今日はバイトが夜にあって中途半端な時間に夕食を食べたくないので、早めにバイト先に行き、丸亀製麺でぶっかけうどんと天ぷらを食べました。
うどんはヘルシーでカロリーがそんなに高くないのに満足感がある食べ物です。天ぷらは、野菜のかき揚げ、かしわ天、春巻きをチョイスしました。天ぷらの中に春巻きあるやん!珍し!!と思ったので春巻きを選び、後は適当に選んで合計720円。
安い!美味い!さっさと食える!というファストフードの三原則をしっかりと遵守した、そんな丸亀製麺でした。全ての食に感謝。
最近、ダイエットをしていてそういえば全部で何キロカロリーあるんだろうと思って、調べてみたらなんとびっくり1300キロカロリー。ぶっかけうどん、春巻き、かしわ天までは600キロカロリーくらいでまあそんなもんか、今日は何も食べてないしなくらいに思っていたのですが、野菜のかき揚げが690キロカロリーくらいある。。。だと。。。
フリーザの戦闘力53万くらいの衝撃!
Dioのスタンドが時を止める能力だったのを知ったときの驚き!
藍染を倒したと思ったら雛森だったくらいの絶望!いやこれはそんなに絶望してないか。
野菜のかき揚げはどうやらめちゃくちゃカロリーが高いので皆さん食べ過ぎには気をつけましょう。
②都知事選
そういえば、最近小池百合子さんが都知事選で勝利し再選されました!おめでとうございます!なんだか涙が出そうです!
小池百合子さんといえばカイロ大学で学んだ堪能な外国語を用いて都民のために一生懸命働いておられる方です。まるで意識高い系大学生みたいな語彙力なんですよこれが!おっと。
さらには公約達成ゼロで当選という歴史的な快挙です!都民はちょろいですね!当選した後すぐに東京都の感染者は200人を超えております。でも、都が助けてくれると思わないで!これからはユリッペの言うように「自粛から自衛の時代」だから!みんな等しくコロナの死の踊りに付き合ってサタデーナイトフィーバー!!!ジュリアナ東京は終わらない!
都民の阿鼻叫喚を肴に酒が上手くなるんだろうなぁ。これからが楽しみです。でもしょうがないよね、都民の決断だもの。
小池百合子様万歳!ありがとう!これからもなんかやってる感を出して長いこと都知事を務めて、弱者を切り捨てて、搾り取って、総理大臣まで駆け上がって下さい!
日本の未来は明るいなぁ!
③エモいバンド
最近ようやくエモいという言葉が馴染んできた。最初聞いた時、まるでその実感がないので、どういう状態を表す言葉か分からず適当に使っていたが、ようやく分かりかけてきた。
私の中ではようはゾクゾクくるような感覚がエモいってことなのかなと思う。
言葉だけが一人歩きして、実感が湧かないというのは良くあるが、分かったときは気持ちいいね!!私の中では、サンホラ、マキシマムザホルモン、ブルーハーツとかを聞いた時にあーエモいなぁと感じるのである(たまに筋肉少女帯)。
先週、山田玲司のヤングサンデーでエモいについて取り上げていた。エモいとは何か、その歴史とゼロ年代批判的なことをやっていたが、やっぱり定義が曖昧なのでジョジョ3部のスタンド、ジャスティスを相手にしているかのような感じであった。
ウィトゲンシュタインはソクラテス以来の哲学は言語の混同によって混乱が生じているとして批判していたが、使う言語の定義が人それぞれ違うというまさしくそんな感じの番組の流れであった。
しかし、その中でおっくんが狭義のエモについて述べていて、めちゃくちゃ納得した。
暇を持て余した四大卒の書いた薄い詩
未来に行くわけではなく過去を懐かしむ感じ
なんちゃって諸行無常
的な感じの定義であった(ちょっと見てから時間が経っているので過不足あるかもしれない)。
みんなが好きなロックバンドを聴いても自分のことを歌っている実感がなく、ただの音の羅列に聴こえる時がある。そういう時の歌詞は、なんだかキラキラしているし、青春感あるし、メンヘラ感あるしで、何も響いていない。
みんなは熱狂していて、それに合わせてはしゃいでみせるが心は奮い立たない。それが俺は変わっていて、社会不適合者なのかなと思っていた。他者との断絶を感じていた。
おっくんの狭義のエモを聴いて、なんだか救われたような気がする。なんだ、俺と似たようなこと思ってるやついるやんけ!
ダサいし、浅いし、陽キャぶってるし、自己憐憫だし!そのくせ社会問題には関心がなく、半径3メートルの感性で完結してるし!
こんな曲が心に響くわけない!(何とは言わない)
その点、俺の好きなバンドは違う!サンホラは圧倒的メロディセンスと歴史、神話、思想を感じられる!マキシマムザホルモンはユーモアと亮君の独特の感性が癖になる!ブルーハーツは傷つきながらも素朴に生きていこうという人間賛歌感がある!
別におっくんの言う狭義のエモを歌うバンドを馬鹿にしたり、下に見ているわけではない。俺には刺さらなかったというだけである。
今後は他人なんかと比べずに、自分の中のエモを育てていきたいと思えるそんな回であった。🖕🖕