生きるための日本史 あなたを苦しめる立場主義の正体 感想

おはよう!こんにちは!こんばんは!KAIです。

最近、安冨歩先生が新刊を出しました。その名も『生きるための日本史 あなたを苦しめる<立場>の正体』です!!この本はすごいですよ!なんとAmazonで買うと5000円+税で買えますが、一月万冊というyoutubeチャンネルで買うと2万6800円もします。解説動画付きなので、それを高いとみるか安いとみるか……

わざわざ自著について解説までしてくれる人はいないから、すごい嬉しい限りです。分からない点とかが分かるようになったりならなかったりするし。貧乏大学生の私にとって、高い出費だったが隅々まで読んで取り戻そうとしつつ、バイトをいっぱい入れるインセンティブにしようと思います!!

 

 

生きるための日本史

生きるための日本史

  • 作者:安冨 歩
  • 発売日: 2021/03/26
  • メディア: 単行本
 

 

感想書いていくぅ!!

 

 

ざっくり要約

 

歴史とはどのような影響を与え、今の自分を形作っているのか。「私の世界史」の構築が大切。

世界は予測不可能で非線形

人間には限界があり、世の中語りえるものと語りえないものがある。

「語りえないもの=神秘」を侵害する暴力の研究を行う者、合理的な神秘主義者になるべき。

経済学の価格決定論は語りえないものを語ろうとする悪しき例の1つ。価格は人々の納得で決まること以上のことは言えない。

経済学は「神秘」を受け入れた上で経済が上手くいかないのはなぜかを考える学問になるべき。

日本は「立場主義」が蔓延る国。立場には役が付いている。役を果たすことが絶対であり、立場を守るために何をしてもよい。そして他人の立場は侵害してはいけない。

立場主義が生まれたのは、明治に徴兵制が敷かれ、家から個人に社会の単位が移行したから。立場上仕方がないという理由で大日本帝国は崩壊し、バブル経済ははじけた。

選択、自由、責任という概念は中世キリスト教世界に端を発する。近代以降の日本はこの概念を表向きは取り入れているが、背後には立場主義がある。

コンピュータの誕生によって立場主義ではうまくいかなくなった。

勝俣鎮夫は「サキ」という言葉に注目して、戦国時代以前の人間は過去を手掛かりにして未来に向かって後ずさりするという時間感覚であったと指摘。また、網野善彦は中世日本には「無縁」の原理が働いており、それが最終的な人間の逃げ場として機能していたことを指摘。

語りえない世界を感じつつ、未来に向かって後ずさりすることが現代社会に求められているのではないか。

 

感想

 

 ざっくり要約といったものの、要約できている自身はない!きっぱりと断言する!要約は苦手なので、ちゃんと本書を手に取って、買って読むのがよろしい。

 やはり、安冨先生の本は面白い!!物事の本質を捕えようという鋭い視点がある!!買ってよかった!!

 現在、経済学部に所属している僕。経済学部に入った当初はきっと知的好奇心は満たされ、毎日ワクワクするもんだと思っていたが、今となってはなんだか経済学はつまらない。
 その理由が明かされたように思う。「神秘」が語りえるものを支えているという事実を直視せず、無理やり定式化しようという態度がやる気を失わせていたのである。
 安冨先生の価格決定論は最初見たとき、爆笑してしまった。価格は人々の納得で決まります。それだけ。そりゃそうでしょと思うと同時に、無理やり数学をこねくり回して定式化しようとしている経済学者がなんだか滑稽に見えた。

 世界は予測不可能で複雑すぎるという事実も素晴らしい。人生が色とりどりで豊かに見えてくる。いい大学入り、大企業に就職するか、安定した公務員になれ!!という周囲の圧力をはねのける力がある。計画し、予測を立てようとしたところで無駄なのである。自分の感覚に正直に生きた方が上手くいくという事実は僕に救いをもたらした。

 立場主義という概念はとても身近に思えた。というのもゼミの論文のテーマ決めにて、とある人がテーマ決めてくれたら後は頑張るのにというような発言をしていたからである。テーマを決められる自由を放棄して、私に「役」を下さいと言っているようにしか聞こえなかった。やはり与えられた役があれば頑張れるのに、与えられなければ自分が何がしたいというのがない人間が多いんだなと知り、改めて安冨先生の慧眼に感服した。

 選択、自由、責任が中世キリスト教の概念であるというのはかなりの衝撃だった。宗教にうさん臭さを感じる日本人は多いが、まさか普段使っている言葉にそういう概念が混じっているとは!!
 これを知っているか知らないかで生き方は変わってくるだろう。というのも、学校では責任とか自由という言葉を平気で押しつけてくるからである。自分を律して意志を強く持て!!責任観を持て!!職業選択の自由が人にはある!!などなど。こういう言葉になんとなく嫌な感じを覚え、心の中で反発していたがそれは間違っていなかったようだ。
 キリスト教の概念で人類普遍のものではない。なんなら哲学では、意志とか責任って成り立たなくね……という議論もあるくらいだ。そんな言葉で僕らを縛らないで!!コントロールできると思うな!!と思う。

 無縁の原理は今後、多くの人間を救うに違いない。有縁の世界はなんだか息苦しい。常に周囲の人間や法律、暗黙の了解によって監視されているように感じる。無縁の世界があると知っていれば、全てが嫌になったときにそこに逃げ出せばいいんだと思える。最近、山奥ニートという本を読んだが、そこでの生活がイメージされた。自分も有縁の世界が嫌になったら、山奥でニートをしたいと思いますので、誰か一緒に暮らしましょう!!

 本書で最もいい言葉なのが、過去を直視しつつ未来に向かって後ずさりするである。僕らの世代の人間は昭和のオジサンたちが考えるような未来はない。給料は右肩上がり、いい車、新しい家電を買って、会社でめちゃくちゃ働き、老後をゆっくり過ごす。このような人生を送ることができない。日本は貧しくなったし、これから先送りにしてきた問題が噴出するだろう。
 そうした時に、もう無理だと、生まれてくるんじゃなかったと思うのではなく、自分には何が残されているのかを確認しつつ、未来に向かってゆっくり進むという生き方を提示してくれた。未来を設計していくという傲慢を捨て、過去に自分が得たもの失ったものを直視つつ、今の自分に何ができるか考える。この態度はコロナ禍でますます混乱を極める社会で有効だろう。
 過去とは先人たちの功罪であり、日本史や世界史でもあるから、自分と歴史との関わりを見ていくことで自分の持っているものは何かということを認識できる。「わたしの日本史、世界史」という概念はそういう意味で大切だ。今度、わたしの日本史、世界史という題でnoteに記事をあげようと思う。

 

もっと詳しく知りたい人向け

 

 立場主義神秘的な合理主義私の日本史、世界史という概念は安冨先生の過去の本にも書かれている。それを読めば理解が深まったり深まらなかったり……ますますわけわからなくなる可能性もあるが、とにかく読んでみよう。

 

親鸞ルネサンス――他力による自立

親鸞ルネサンス――他力による自立

 

 親鸞の他力概念を現代社会に応用しつつ、「私の日本史」という概念を構築。

 

 

合理的な神秘主義‾生きるための思想史 (叢書 魂の脱植民地化 3)

合理的な神秘主義‾生きるための思想史 (叢書 魂の脱植民地化 3)

  • 作者:安冨 歩
  • 発売日: 2013/04/24
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 数々の思想家、哲学者、宗教家の考えをたどりつつ、合理的な神秘主義に到達する本書。魂の脱植民地化のシリーズはどれも読みごたえあり。

 

 

 立場主義は安冨先生の数多くの本でふれられているが、自分の中ではこの本がオススメ。いわゆる専門家と言われている人たちの言語の欺瞞がよくわかる。

 

おわりに

 

 やっぱり安冨さんの本は素晴らしい。今後の生き方を提示してくれた。解説動画を全部見ていないので、それもしっかし見て理解を深めていきたい。2万6800円払ったかいがあるというものだ。僕がバイトで稼いだ諭吉たちが成仏していく姿が見えるよ………!!

 生きるための日本史が届いた次の日に、安冨先生の主著『経済学の船出』が届いた。これは一回、図書館で借りて読んだが、難しかったので手元に残しておこうと思って買った。3万5000円する本である!!!!解説動画付き。素晴らしい本であるし安冨さんにお金を落としたい気持ちがあるとはいえ、かなりの出費であった。しっかり読み込んで自らの血肉として、元をとって、諭吉たちを成仏させたい思う!!南無阿弥陀仏!!

そのうち、『経済学の船出』の感想もあげるので是非読んでください!!

 

夢追うことは誰にも止められない!?怪獣8号①、②感想

おはよう!こんにちは!こんばんは!KAIです。

諸君には夢はあるかー!

僕はあるぞ!幸せに生きることだ!漠然としているけどね……

夢見てしまった以上それを止めることはできない。今回紹介する松本直也先生の『怪獣8号』もまた、夢に取りつかれてしまった人たちを描いた物語である。日々の労働と消費に忙しい現代人に読んでほしい漫画であるッ!

 

怪獣8号 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)

怪獣8号 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)

 

 

 

あらすじ

 

世界での類を見ないほど怪獣が定期的に発生する日本。かつて怪獣から人々を守る防衛隊員を目指していた日比野カフカだが、夢を諦め、怪獣専門の清掃員として働いている。ある日、カフカは謎の怪獣によって、怪獣化する力を手に入れる。そして、人々から怪獣8号と呼ばれる存在になりつつも、それを隠しつつ、防衛隊員を再び目指すことに!?運命やいかに!?

 

キャラクター紹介

 

日比野カフカ(主人公)
謎の怪獣によって、怪獣化する力を手に入れた本作の主人公。怪獣をワンパンで殺せるほどの力を持つ。一撃必殺怪獣ワンパンマンっていう感じ。幼馴染である亜白ミナと人々を怪獣から守る防衛隊員になることを約束するが、自分だけ不合格に……それ以後、防衛隊員になることを諦め、怪獣の死体を片付ける清掃員として働いていたが、後輩市川レノの勧めによって再び防衛隊員を目指す。

なんか、あんまり頭がよくない感じが好きじゃないんだよな……防衛隊員になりたいという割に本気が伝わってこない感じ。ギャグキャラでもあるからそう映ってしまうのかも……ただ、夢を諦めず、追い続けようという意志はカッコいいぞ!

 

亜白ミナ(ヒロイン)
カフカと防衛隊員になることを約束し、実際に夢を実現し、なんなら最強の隊員になってしまった才女。クールビューティー。防衛隊の顔として大活躍中。カフカのことを待っている描写がある。

今後、怪獣化によって理性を失ったカフカと対決して、正気に戻す役割何だろうな……化け物の力を得たキャラは大抵暴走するから……泣く泣くカフカを撃ち殺すシーンが見えるぞっ!

 

市川レノ(後輩)
カフカの清掃員の仕事にバイトとして入り、怪獣に襲われているところを助けてもらう。防衛隊長を目指している。助けられた経験からカフカが隊員に向いていると助言、再起を促す。カフカが怪獣になったことを知っている。

バイトに入って1日目でカフカに信頼を寄せている純朴な好青年。いいかい、バイト先の人間には一見いい人そうでろくでもない奴もいるから気を付けて……

四ノ宮キコル
防衛隊の試験会場で出会った少女。お嬢様。才女。ツインテール!その才能は試験を受ける前から一目置かれている。

おそらく、最初は才能あるキャラとして扱われるも、段々主人公やらレノが成長していって私って大したことなかったのね……とエヴァンゲリオンアスカみたいになると予想。隊員になれ!それがお前の生きる意味だ!っていう感じで教育されてて、親の愛を知らず、闇落ちする展開はよ。

その他、いろいろなキャラクターがいるけれど割愛。実際に読んで確かめてくれ!!

感想

 

 本作の魅力の一つは先述したように、夢を追いかけるキャラクターたちである。テレビで自衛隊員やら消防士を目指す若者たちで特集を組まれることが多いが、それを見ている感じ。切磋琢磨しながら、頑張っている姿は応援したくなるよね!!

 僕がこの漫画で一番好きなのが、怪獣の気持ち悪さである。歪な造形で、目がいかれてしまっている怪獣が出てくるので見どころです。そのうち人型の怪獣とか出てきそうだな……と思う。主人公の怪獣8号が人型だしね。人型に近づくほど強く、力の序列が存在するという展開ありそう!BLEACHエスパーダみたいな!!

 怪獣専門の清掃員が存在するのも面白い!と思う。ウルトラマンとか怪獣倒した後、死体とかどうしてるんだろと思っていたが、こうやってちゃんと専門の業者がいると世界観が上手くできてるなと感じる。きつい、汚い、臭いの3kだから誰も仕事に就きたがらないので、給料高く設定されてそう……僕も仕事に困ったら、怪獣の死体を片付ける清掃員になります!!

 怪獣の清掃員がいる世界だから、法律として怪獣基本法とかありそう。怪獣を殺すのはダメだという動物愛護団体とかいれば面白いだろうな……怪獣の権利を認めようみたいなデモ活動とか、怪獣を倒す予算のための増税で国会が紛糾とか、怪獣は存在しないという陰謀論とか、警察や自衛隊と怪獣防衛隊との管轄の摩擦とか、防衛隊のスーツ組と現場組の対立とかあったら最高だと思う!!!清掃員を出してリアル路線を行くなら、それくらい突き抜けてほしいと思うのは僕だけ!?まあ僕だけか……

 

おわりに

 

怪獣8号が面白い!!という評判をよく聞くので買って読んでみたが、僕としては正直、今のところ普通という感じである。なんか、ギャグがいまいち自分には合わないようだ。しかし!今後、もっと面白くなりそうな要素がチラホラ見えているのでじっくり待ってみたいと思う。

しかし、夢のために頑張るっていいよなぁとつくづく思う。夢とか目標とかなくダラダラ生きてきた自分には眩しいぜ…!何かやりたいことを見つけて、必死こいて頑張ってみたいと思える漫画だった。

日々の消費活動と労働、スマホに忙殺されている皆さんにオススメです!!!

 

怪獣8号 2 (ジャンプコミックスDIGITAL)

怪獣8号 2 (ジャンプコミックスDIGITAL)

 

 

ビーガンが肉を食べない論理とは!?はじめての動物倫理学 感想

おはよう!こんにちは!こんばんは!KAIです。

最近、流行の言葉にビーガンというものがあります。肉や魚、卵や乳製品、動物由来の衣類などを避けている人たちです。

僕は正直、ビーガンは胡散臭いなあと思っていました。動物が可哀そうという感情的な理由で肉を食べない変わった人たちくらいに思っていました。

しかし、田上孝一先生の『はじめての動物倫理学』を読んで愕然としました!!めちゃくちゃ論理的な理由があったからです!論理が一貫していないのはむしろ肉を食べている私たちかも……!?紹介していくぅ!

 

はじめての動物倫理学 (集英社新書)

はじめての動物倫理学 (集英社新書)

  • 作者:田上 孝一
  • 発売日: 2021/03/17
  • メディア: 新書
 

 

 

多様性の尊重から動物倫理が生まれた!?

 

まず、現代社会の常識として多様性の尊重がある。

人類の歴史は差別とともにあった。

女性は選挙権をつい最近まで持っていなかったし、子どもは親の所有物であった。障がい者の権利について議論されるようになったり、肌の色の差別について議論されるようになったのも人類の長い歴史を鑑みればついこの間である。もっとさかのぼれば売買される対象、すなわち奴隷が当たり前に存在していた。

しかし、近代に入ってからは、「人権」という概念が用いられ人間社会の中で浸透し、差別は解決しなければならない問題であると認識されるようになった。

多様性の尊重は特定の人間像を採用しないということである。

昔は成人男性の権利しか認められていなかった。これは成人男性のみ「理性的存在」であり、それが適切な人間像であると考えられていたからである。

そうなった場合、女性は男性ではないから人間カテゴリーから外される。子どもは十分に理性的存在でないとして認められない。何らかの知的な障がいを持つものは「理性的」と呼ぶことはできない。

このように特定の人間像(成人男性など)を採用した場合、その枠からはみ出てしまった者は「人間」として認められなくなる。そうであるから、人間像の射程を広く捉えるのが、最近のトレンドであり、それが多様性の尊重につながると考えられている。

では、僕たちが伝統的に前提としている人間と動物の絶対的な区別は可能だろうか。

というのが動物倫理学である。

ここで注目してほしいのは動物の権利なるものを認めようという動きの根っこは多様性の尊重にあるということである。人間を絶対的なものさしで見るのではなく、相対的に見ていくと人間概念の射程はついに「動物」にまで達したということである。

 

カントの伝統的な動物観

 

では、僕たちになじみ深い伝統的な動物観というのを確認していきたい。

伝統的な動物観では人間にとって動物はあくまで物としての物件である。

例えば、僕たちはペットショップで犬やら猫を購入する。人間が店で人間を買う即ち奴隷は現代社会でお目にかかることはないが、犬や猫は購入可能である。これは犬や猫を物件のように売買可能であると認識しているからである。

人間を売買してはいけないのは、手段としての物ではなく目的的な人格であるからだ。これはカントの哲学である。しかし、カントも動物は目的的な人格であると考えず、物として扱うことを是とした。

人間が犬や猫を大切にするのは物を大切にするということと同じことである。あくまで人間の気分によって「動物」の扱いを決めていることに動物倫理学は反対する。

 

デカルトの動物機械論

 

人間を手段ではなく目的として扱うことを説いたカントですら動物を物として扱う動物観を支持しているということを見てきた。

デカルトはもっとはっきりとカントよりも一貫した理論を提唱している。それが動物機械論である。

デカルトによれば人間も動物も神が創造した精巧な機械である。しかし、人間は思惟することができる、心ある機械であり、動物は心がない機械である。そして心がないために動物は苦痛を感じない。苦痛を感じているように見えるだけである。

動物は心のない機械であるから、人間が好き勝手に扱っても問題ない。神が一応、創造したものであるから猟奇的な趣味で殺したりするのはよくないが、肉を食べたり、毛皮をはいだりする分には問題ない。

動物機械論は動物を利用したい人間にとってとても都合の良い理論である。

だから、動物機械論は動物の生体解剖をする際の慰めとなった。昔は麻酔はなく、生体解剖や手術などの際、動物が苦痛に悶え暴れることがあったというが機械がそのような反応を示しているだけだと考えると気が楽になる。

痛々しい話だよぉ………

 

人間と動物の境界線とは……!?

 

ここまで読んでいただいた人はなんとなく話が見えてきたかもしれない。もうちっとだけ続くんじゃ……

デカルトやカントは人間は動物は根本的に異なっているという考えをとっていたことは確認してきた。

肉体は動物だけ唯一人間だけが理性を持ってる!というのがその主張だ。

しかし、人間と動物は本当に異なるのか。

有名な研究がダーウィンの進化論である。どうやら人間は猿から進化したらしいぞ!という衝撃は人間と動物の境界を揺すぶった。

また、ゴリラやチンパンジーは複雑な音声コミュニケーションを行っているというのも最近の報告で分かってきた。コミュニケーションは人間だけの行いではなかったのである。

そしてコミュニケーションを行えるということは「社会」が存在するということである。実際、家族や仲間に対する愛情あふれる関係が多く観察されるようになった。社会的存在は人間だけではなかった。

まだまだある。道具の使用も人間の特徴であると理解されていたが、実際は多くの動物が道具を組み合わせて使っていることが分かってきている。

最大の発見は二重らせん構造の解明である。人間が動物と異なっているのならDNAも異なっているはずだが、際立った差はないということが分かってきた。

人間と最も近いとされるボノボ(ピグミーチンパンジー)と人間のDNAの差は、ボノボとテナガザルのDNAの差よりも小さいとされるからだ。(p58)

全く同じではないが、ここまで似ているところがあるともはや人間と動物の差はほとんどないということが分かる。人間もただの猿であることがよく分かる。

 

ピーター・シンガーの論理

 

ここでようやく動物倫理学の基礎が見えてきた。生物学的な知見によって動物と人間の差はないことが分かった。さらにこれをどのようにして倫理学の一分野として成立させたか。

動物倫理学創始者ピーター・シンガーの論理を見ていこう。

種差別という言葉がカギである。

つまり種差別とは、人種差別と同じ過ちを、人間と動物の間で犯してしまうことだというわけである。しかしこういえば当然、「それはおかしい、人間と人間との問題は人間と動物との問題とは違う」という反論が直ちに起こるだろう。実はそれが種差別なのである。苦痛を与えることが悪いならば、苦痛を感じる存在全てにとって悪いのであって、それが人間でなくてもやはり悪いのである。(p79)

そして、功利主義的な計算に基づいて人間、動物苦痛を感じるすべての存在へ配慮し人間同様に配慮を説いた。

功利主義は「最大多数の最大幸福」を目指す。その多数の中に動物が含まれたということである。それは動物が苦痛を感じる存在だからだ。

一方で問題もある。

では、動物の苦痛を取り除く手術なりを施せば、畜産や実験に用いていいのだろうか。例えば、感覚神経を取り除いて動物を工場で生産するとか、麻酔を用いて苦痛をなくすとか。

功利主義はこれに反対することができない。快、不快の計算の最大化をから苦痛を取り除けるのであれば不快のマイナスが消え、問題解決!となるのある。

ピーター・シンガーの論理では動物の解放には至らない。功利主義の論理ではむしろ苦痛を取り除けば動物を利用してもいいという結論に至ってしまう。

 

トム・レーガンの論理

 

種差別という概念は新しかったが、功利主義の発想に基づいていたために動物の解放いは至らなかった。

それを克服したのがトム・レーガンである。彼はカントの哲学を利用して動物の解放を図った。

カントの哲学は最初の方にチラッとだけ書いている。それは手段ではなく目的として扱うという考え方である。何の役に立たなくてもただそれだけで価値があるような存在として扱うということである。

そしてそれを人間だけでなく動物にも拡張して適用しようというのがトム・レーガンの主張である。快・不快を感じることができる存在を種差別することなく平等に扱うという動物の権利を認める。こうすることで功利主義によらない動物の解放が達成される。

カントの哲学を応用しレーガンは動物の権利を基礎付けることに成功した。一方で問題もある。

 

動物倫理学の問題①

 

これまでピーター・シンガーとトム・レーガンの論理を見てきた。動物倫理学の骨組みが分かってきたのであるが、やはり完璧なロジックは存在しない。問題点もある。

一つ目は、人間と動物の間に利害対立が生じた際、どう調停すればいいのかという問題である。

例えば、動物と人間が命の危険に瀕している。直すための薬は一つしかない。どちらに注射するか。

動物に権利はないとすれば問答無用で人間に注射するが、動物倫理学では動物の権利を認めるためそうはいかない。動物を助けて人間を見殺しにするということもあり得るのである。

しかし、この考えは多くの人の支持は得られないだろう。動物の権利を認めたレーガンもこういう時は動物が犠牲になるほかないと主張しているが、それでは整合性が取れない。

しかし、このような時はかなり例外である。人間であってもどっちかしか救えないならどちらを救うかで悩むので、動物でも同じだ。

問題は科学技術の発展で人工肉が誕生したり、生体実験を行う理由もなくなっているのに動物を殺しているということである。昔は人間の生活を維持するため仕方がなかった面があるが、今はそうではないのである。

 

動物倫理学の問題②

 

二つ目は、本書を読んでいて僕が気になった点である。

それは、肉食動物はどのように扱えばいいのだろうか、ということである。今後、人工肉などが開発されるようになれば肉食動物もそれを食べるべきではないか。

動物に権利がある以上、肉食動物も草食動物の権利を奪っていることになる。それは人間と同様、昔は必要悪だったが、今後科学技術が発展して栄養学的に十分な人工肉が開発された場合、肉食動物もそれを食べるべきではないか。

肉食動物がよしこれからは人工肉を食べるぞ!と考えを変えることはないだろうから、その時は人間が人工肉を肉食動物の分用意して食べさせることになるのだろうか。

そこまでしないと動物の権利を守ることにならないが、そこまで人間がしなければいけないのか。

何か、権利概念の落とし穴があるような気がしてならない。それは今後の研究を待つことになるのかな!?

 

おわりに

 

ここまで長くなるとは思わなかった。丁寧に書きすぎた。ここまで読んでくれる人いるかな………要約の技術をもっと高めなきゃ!!

動物倫理学の骨組みの部分を要約してきた。単にビーガンは動物が可哀そうだからという理由だけで肉を食べないのではなく、こんなに論理的な理論があるとは!正直驚いた。ビーガンの皆さん偏見を持ってしまい申し訳ございません。

ただ、実践するとなると難しい。肉食に慣れてしまった僕はこれから一切食べないとなるとかなり体調を崩しそうだ。ただ、本書は個人で少しずつそういったことをやっていけばいいと述べている。すぐに実践することは難しいからね……まずは自分の生活を見直すところから始めようかな……

やはり、自分の考えと全然違う主張は偏見を持ちやすい。しかしそのような主張にも論理的な理論が存在することが分かって良かった。

もっといっぱい勉強しなきゃね!!!!!

田上孝一先生のマルクスの本も読んでみよ……

 

マルクス疎外論の諸相

マルクス疎外論の諸相

 

 

昭和96年!?大学と自分の弱さが見えてきた

おはよう!こんにちは!こんばんは!KAIです。先日、大学に対していい加減にしろ!っと思うことあったのでそのことについて書きたいと思います。またその際、自分の弱さも見えてきたので自戒のためにここに記します。少々愚痴っぽくなるかも……

 

 

これが昭和96年のゼミナール活動です

 

先日、私はゼミナール活動のために大学に行った。ゼミで毎年発刊している文集を印刷するためである。ゼミ生から集めた原稿をコピーする。70部。それをホチキスで止めて、テープを貼って………

いい加減にしろっ!!!!

時代は21世紀だぞ!オンライン全盛期だぞ!コロナ禍だぞ!わざわざ人を集めて、文集を手作業で作るとか時代錯誤甚だしいだろ!

ネットにアップロードすればいいだけじゃない?仮に製本するとしても記念に一冊程度だろ!

実際に作業していてイライラしてしょうがなかった。

やはり昭和は終わっていない。令和3年ではなく、昭和96年である。いつまでも昔の作業効率の悪いことを強制する。まるで美徳であるかのように。

もちろん、私は紙で作ることを否定したいわけではない。紙の良さはよくわかっているし、本やら漫画を買うときは基本的に紙である。

だけど、身内に配るだけの文集をコロナ禍にわざわざゼミ生を呼んで作らせますか!?ということを言いたいのである。

 

指摘できない自分の弱さ

 

そして、自分の弱さも同時に痛感した。noteに書くよりもまず、その場で指摘すればいいだけである。

コロナ禍でオンラインの重要性が改めて認識されている状況の中で、手作業で紙ベースの文集を作るのはいかがなものでしょうか。ゼミのホームページでも作って、オンライン化のいいきっかけとしましょう。

と教授に言えばよかったのである。

不満に思ったことはすぐに言う!これが非常に大切である。

僕の短所として「先生」と呼ばれる人間を前にすると、思っていることを言えなくなるというものがある。どこか遠慮してしまい、話を合わせてしまう。きっといい「学生」を演じているのだろう。

「先生」は目の前にいる人間を見ていない。見ているのは「児童」や「生徒」、「学生」であり、物わかりの言い自分に絶妙に合わせる「児童」「生徒」「学生」を好む。そうした性質の「先生」がいる学校に長いこと慣れ親しんだせいで今、大変な目に遭っている。もっと、素直に純粋に生きれば良かったよ!!

僕は自分が思ったことを堂々と言える人間になりたい。たとえ、それが権威ある人や年上であっても。

自分の弱さを再確認させてくれた経験だった。今度は絶対、本人を前にして堂々と批判してやるからなっ!見てろよ!

 

おわりに

 

今後、ゼミとの関わり方を考えなけらばならないと思った。

こういうところに我慢してかかわりを持っていると、自分の感覚が鈍って、感受性が衰え、最悪、ロボットのような人間になってしまう。なるべく、ゼミの大きな集まりなどには参加しない方針で行こう……

一方で、「先生」の前でどこか遠慮してしまうのは悪い癖である。自分の気持ちを人に失礼のない形で伝える力を身につけなければならない。

自分と大学の弱さが同時に見えてきた貴重な経験だったと思っておこう。

 

生きる技法

生きる技法

  • 作者:安冨 歩
  • 発売日: 2011/12/23
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 安冨歩先生の本。僕の物事を考えるうえでの指針になっている。

 

 

【ネタバレ注意】1つの終わりは新しい始まり!シン・エヴァンゲリオン感想

おはよう!こんにちは!こんばんは!KAIです。
ついに!ついに!庵野秀明監督の最新作、シン・エヴァンゲリオンを見ました!感無量です!見終わった後の余韻がすごい。情熱が風化してしまう前に、感想をつらつら書いていきたいと思います。ネタバレ注意です!

 

 

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序

  • 発売日: 2007/09/01
  • メディア: Prime Video
 

 

 

前提

 

私はエヴァンゲリオンの細かな設定はよくわかりません。正直、シン・エヴァンゲリオンを見終わった後もチンプンカンプンで何が何だかよく分からないという感じです。

しかし、庵野監督のメッセージはよく伝わった!!

漫画家の山田玲司先生が旧劇版のエヴァ解説を「山田玲司ヤングサンデー」で行っており、エヴァという作品は庵野秀明監督の私小説であると結論付けていました。

庵野秀明監督は1960年生まれ。戦争を経験した世代のだいぶあとに生まれており、生まれたときからアニメや特撮に触れ、楽しんでいた人類で初めてのオタク、オタク第一世代。上の世代は戦争体験という圧倒的な暴力を受けたこともあり、作品の中にそうしたメッセージを織り込んだり、アニメ黎明期であったこともあり様々なオリジナリティあふれる表現方法を開拓したりしている。オタク第一世代である自分の人生には戦争体験もなければ、オリジナリティもない、あるのはオタクとして見てきた作品の数々と圧倒的に個人的で主観的な感情の吐露しかない。だから、エヴァには庵野秀明監督自身のプライベートな経験や感情そのものが凝縮されている。

おそらく、このような説明であったと思います。


超解説「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」〜魂の全裸監督・庵野秀明の本音告白アニメの果て・山田玲司のヤングサンデー第182回【293】

 

私の感想はそれを踏まえた上でのものになります。庵野監督、あなたの言いたいことが分かりましたよ!!

 

時間がない人向け、一言でずばりシン・エヴァのメッセージ!

 

25年の月日は少年を大人にした!

結婚して自分は大人になりました!

エヴァの呪いを解体して、自分は再出発するぜ!君も前に進みなよ!

というのが庵野監督が伝えたかった事なのでは!?

 

エヴァの呪いとは

 

物語冒頭、シンジ一行はとある村に行き、14年間を経て大人になったトウジ委員長ケンスケと再会する。

トウジと委員長は結婚し、子どもが生まれ、町医者として働くようになっていた。ケンスケは村の何でも屋として働く。

エヴァにおいてニア・サードインパクトを起こしてしまう。そして大切な友達だったカヲルを失う。すべてに絶望してシンジ。そんなシンジにトウジは語り掛ける。

ニア・サードインパクトで多くの命が失われたが、救えた命もあった。

(大体のニュアンスで書いているので細かいところは適当です)

この言葉は庵野監督自身の言葉のように聞こえる。

エヴァンゲリオンという言葉のもともとの意味は「福音書」である。福音書イエス・キリストが誕生して弟子を引き連れ、処刑された後に復活するという物語が描かれている。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネによる福音書が存在し、微妙に記述が異なっているがそのどれもが神の言葉として大切にされてきた。全知全能の神の言葉、世界に矛盾があってはいけない。だから、矛盾を「解釈」によって解決する神学というのがヨーロッパ社会で発展していった。

庵野監督による「エヴァ」も神学的な発展を遂げていく。当時の感情の爆発、実存への悩みを描いた私小説がファンの解釈により膨張し、一大ムーブメントを起こした。この流行を庵野監督はどのように感じていたのだろうか。

自らの手を離れ再生産を繰り返す物語を苦々しく思ったのではないか。エヴァの監督としての自分。それは呪いのように自らを蝕んでいったのかもしれない。

そしてエヴァの作品としての呪いはファンにもむけられるエヴァという完結した物語に閉じ込められた人間は成長することなく14歳のときのまま年月が過ぎ去っていく。

一方で、呪いは「救い」でもあったはずだ。エヴァンゲリオンという作品に救われた人間は大勢いると思う。シンジというキャラクターを通して他者とのふれあい、自分との向き合い方を何か学んだ人もいると思う。

それらを踏まえた上でで、トウジの台詞に戻る。

エヴァンゲリオンと作品を作ったことにより自分もファンもエヴァの呪いにかけてしまった。しかし、それは一部の人間の命を救ったんだ。

トウジの台詞が庵野監督がそのような感情の吐露に聞こえた。一方でトウジは大人になっていた。自分も大人になり、作品に落とし前をつけなければならない。ここでシンジと庵野監督は重なる。

 

25年の歳月は少年を大人にしました。

 

物語の終盤。人類補完計画を発動させたゲンドウ。

ネブカドネザルの鍵を取り込んだゲンドウがモノアイで、目から光線放ってるのちょっと笑いそうになりました。)

実は今回の補完計画はゲンドウ自身によるものであった。ここが旧劇と大きく異なるところだろう。

実はゲンドウの過去の掘り下げはあんまり行われてこなかったし、旧劇はシンジの補完というのが主であった。

このシンジからゲンドウへの変化が面白い。おそらく狙いというかメッセージは2つあると思う。

1つ目は、庵野監督自身の変化である。

旧劇場版でプライベートな感情を爆発させた庵野監督だが、新劇を作る前の2002年に漫画家である安野モヨコ先生と結婚している。旧劇ではシンジと同じような思春期の青年のメンタリティであった庵野監督。しかし、結婚を通して、年月を経て、大人であるゲンドウになった。

身体的な変化と別にシンジとゲンドウのメンタリティの部分では違いはなかったことが本作で明らかとなる。他人とかかわることで自分も他人も傷つけることが怖かったゲンドウ。しかし碇ユイと出会うことでそのままの自分でいいんだということに気づく。碇ユイとは安野モヨコ先生なのだろう。

25年の月日によって、シンジ=庵野監督は歳を取り、そしてユイ=安野モヨコとの出会いによって精神的にも成長した。もう旧劇のときのような青臭さと未熟さをもつシンジではない。25年の月日は庵野監督を成長させ大人にしたということである。

2つ目は、当時少年で旧劇場版を見て育った人へのメッセージ。

当時少年として青年としてエヴァを見ていた人たち。彼らはもちろんシンジの気持ちに乗っかって物語を見る。思春期のぐちゃぐちゃした気分、誰かに認めてもらいたい気分、異性との接し方が分からない、自分って何だろう。そうした思い全てをシンジに重ねて、思いのたけを叫んだ青年。

それが25年を経ていっぱしの大人になっていた。補完計画の主体の変化、シンジからゲンドウへという変化はそのまま視聴者が重ねた月日なのである。勉強したり、仕事をしたり、恋愛したり、結婚したり、様々な経験を25年間で積み上げた。

あなたはどんな25年間を過ごしましたか?成長できましたか?

という庵野監督からの問いかけでありメッセージである。

 

エヴァという舞台の解体と再出発

 

物語は最終盤。シンジはそれぞれのキャラクターとともにエヴァンゲリオンという作品の舞台の解体を始める。

機材を撤収し、骨組みを取り外し、土台を運んで、扉を閉める。

この作業は庵野監督自身のエヴァという作品に対する責任の取り方を表現しているのだろう。

自らの手を離れ自己増殖をするエヴァという作品。エヴァの呪いに終止符を打つ。その強い覚悟がうかがえた。

そして物語ラスト、シンジは声変わりしマリとともに電車に乗る。

シンジの声変わりはエヴァの呪いが解けたことを表している。エヴァという舞台を解体したことで止まっていた時は動き出した。俺は仕事をやり遂げたぞ!という庵野監督の声が聞こえる。

マリ=真理なのではないかとふと思った。謎のキャラクター、マリ。彼女はゲンドウがユイと出会い、シンジが生まれ、エヴァに乗り、補完計画を止め、答えを出すという物語をすべてを見ている。補完計画のその先の答え、ある意味では真理のようなものに納得し、電車に乗るのである。

電車とは再出発の象徴だろう。シンジはマリ=真理の手をつなぎ電車に乗り込み出発した庵野監督はエヴァという舞台を解体し、呪いを解いた上で、俺は先に進むぞ!君の一緒に前に進もう!と視聴者に語り掛けるのである。

 

終わりに

 

僕がエヴァに出会ってから14年。(新劇から入ったので)

映画を見終わったとき、14年間の思いが去来した。いろいろなことがあったなぁ。

エヴァンゲリオンという作品が終わってしまったことへの寂しさが湧いてくる。長いこと楽しませてくれた作品だ。思い入れもある。友達と語った思い出もある。しかし、「終劇」の二文字をみたとき本当におわるんだなと確信した。庵野監督の強い覚悟がにじみ出ていた。

しかし、ここで悲しみにくれ、立ち止まってはいけない。

庵野監督が俺は再出発するし、君も前に進もうと語り掛けているのだから。

1つの終わりは新しい始まりという言葉が好きだ。エヴァンゲリオンという作品が終わってもなお、僕の人生は続いていくのである。始まりに希望を見出して……

父に、ありがとう

母に、さようなら

そして、すべてのチルドレンに

おめでとう!!!!!!!

 

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q

  • 発売日: 2012/11/17
  • メディア: Prime Video
 

 

 

登場人物、全員狂人。エログロリアル鬼滅の刃!? シグルイ感想

おはよう!こんにちは!こんばんは!KAIです。突然ですが!みなさんは死ぬほど努力した経験はありますか?

僕はありません!!

1つの物事に死ぬほど取り組んでいる人を見るとすげえ!って思いますよね!僕もそれくらい熱中できるものに出会いたい!

というわけで、今回は気が狂うほど、死ぬほど、命を懸けて戦う人々を描いた名作シグルイを紹介していくぅ!!原作:南條範夫先生、作画:山口貴由先生となっております。

 

 

 

あらすじ

 

時は江戸時代初期。駿府藩主、徳川忠長の御前で真剣による試合が催された。第一試合、隻腕の剣士、藤木源之助VS盲目・跛足の剣士、伊良子清玄の戦いが始まろうとしていた!?隻腕と盲目・跛足の剣士の戦いが果たして成立するのかと周囲はざわめく中、伊良子は刀を杖のように地面に突き刺して、足の指で挟み体を横にねじらせる奇妙な構えを取る。藤木は動じず大きく構える。彼らの因縁が今、交差し火花を散らした!!??

 

時代背景

 

時は江戸時代。戦国時代の残り香がある江戸時代初期であり、試し切りやら藩の取り潰しがまだ頻繁に行われていた。駿府藩の藩主、徳川忠長は徳川秀忠の息子であり、家光よりも寵愛を受けていたが、家康の鶴の一声によって家光が将軍になる。

そのせいで忠長は結構イカレてしまう(これは史実)。

酒に酔って家臣や坊主を殺すし、神聖な地で禁じられていた猿狩りをして1240匹殺すなどめちゃくちゃ。

ついにはパパの秀忠から勘当され、改易され、群馬県高崎にて切腹。28歳に短い生涯を終えた。

そんなイカれた忠長が御前試合を行うというのがシグルイの設定である。当初は木刀で試合をする予定だったが、真剣でやれよ!!と忠長が命じ、真剣での殺し合いがスタート。

隻腕の剣士・藤木と盲目、跛足の剣士・伊良子殺し合い、勝つのはどっち!?というのが本作の面白いところであるが、時代背景を意識して読むと歴史の勉強になったりならなかったりするぞ!!

 

登場人物、全員狂人

 

北野武監督のアウトレイジという映画のキャッチコピーは「登場人物、全員悪人」というものであった。実際見てみると悪い奴しか出てこなくて清々しい気分になったものであるが、シグルイはキャッチコピーをつけるなら「登場人物、全員狂人」である。先述した忠長も相当イカレているが、他のキャラクターもそれ以上に頭のねじが外れている。

 

主人公:藤木源之助(ふじき げんのすけ)

虎眼流の師範代であり、本作の主人公。主人公だからまともだと信じたいが中々のイカレっぷり。炭治郎並みに我慢強い。いわく「痛くないと覚えない」。貧民の出で親に捨てられ、死にかけたところを後述する虎眼先生に拾われる。

 

もう一人の主人公:伊良子清玄(いらこ せいげん)

めちゃくちゃ野心家。出自が貧民であるため、とにかく成り上がったるで!という矢沢永吉タイプ。天才。浮気男。師匠の愛人を寝取っちゃいましたテヘペロとやっていたら、ばれて制裁を食らい盲目に。封建社会に疑問を抱き、自分の力で成り上がる姿勢は結構共感できるのだが、節々にクズさ加減がにじみ出ているのでなんだかな……って感じ

 

師匠:岩本虎眼(いわもと こがん)

虎眼流の開祖にして最強の剣士。歳のため精神がおかしくなっており、一日の大半の意識がない。暴力&暴力。残忍。後述する弟子の牛股の口を刀で切りつけるのが趣味。娘を子供を産む機械くらいにしか思っていない。本作ナンバーワンのイカレっぷり!

 

虎眼流師範:牛股権左衛門(うしまた ごんざえもん)

虎眼流の師範であり、ナンバー2のポジション。師匠によくいじめられるため口が裂けている。馬鹿力。ストイック。こいつはまともか……と思って読んでいるとやっぱりイカレテル!!となる。悲しい過去があるので、是非読んでいただきたい!

などなど、頭がおかしいキャラクターのオンパレードである。この他にも大勢いるが、割愛。江戸時代初期の殺伐とした雰囲気を生きているからか、どこか今から見ると狂って見える。どいつもこいつも命を懸けて戦い、生きているので、熱量は半端ない!仕事やら勉強やらのエネルギーをチャージしたいあなたにオススメ!

 

封建制やばい!

 

本作の舞台は江戸時代であるから、いわゆる封建制である。

封建制(ほうけんせい)は、君主の下にいる諸侯たちが土地を領有してその土地の人民を統治する社会・政治制度。諸侯たちは、領有統治権の代わりに君主に対して貢納や軍事奉仕などといった臣従が義務づけられ、領有統治権や臣従義務は一般に世襲される。(by Wikipedia)

本作で封建制を端的に表す名台詞がある。

封建社会の完成系は少数のサディストと多数のマゾヒストによって構成されるのだ

徳川忠長が御前試合を真剣で行うと命じたとき、一部それを止めようとした家臣はいたものの多くの家臣はただそれに従った。このように少数のサドが大勢のマゾを従えて、誰も望んでいない方向へ進んでしまうのが封建社会である。

本作の台詞に沿ったとき現代日本は実は封建制的な部分はあるのではないかと思う。やりたい放題の政治家に国民は特に何も感じないのだから……

 

おわりに

 

昨今の日本社会では鬼滅の刃なる漫画が流行っているらしい(僕も最近読みまして見事にはまりました)。分かりやすく、鬼滅の刃をめちゃくちゃリアルにしてグロくして、エロくしたのシグルイだ!と言っても過言ではない(いや過言だな……)。

この作品はとにかく熱量がすごい。キャラクターたちは生き残るため、今を必死で生きている。そのために知恵を巡らし、鍛錬を怠らない。正直、グロかったり、エロかったりするのだが、その生々しさが「生」を引き立てる。

最近、仕事やら勉強やら、遊びのやる気が起きない、何もする気が起きないという人が本作を読めば、外を走りだしたくなるだろう。

マンガ版のカフェインシグルイめちゃめちゃオススメです!!(まあカフェインの摂取はほどほどに……依存症になるからね……)

 

 

大学教育ははたして必要なのか。コロナ禍で見えてきた大学の実態

おはよう!こんにちは!こんばんは!KAIです。本日投稿したいのは、漫画の紹介でもなく、本、映画の感想文でもありません!

2020年、一年間オンライン授業を受けていく中で見えてきた大学への懐疑。これをツラツラ書いていきたいと思います!

大学批判になりますが、一学生の意見だと思ってあまり叩いたりしないでね!僕は僕なりにこうしたほうがいいと思うことを書いてるだけで悪口ではないよ!!

ちなみに安冨歩先生の影響をかなり受けた内容になりますので一応、一月万冊のリンクを貼っておきます。

一月万冊 - YouTube

www.youtube.com

 

 

オンライン授業万歳!!

 

僕は、2020年、一年間オンライン授業を受けてきた。大学に実際に行って授業を受けるという形式がコロナによって不可能になり、オンライン授業になるという流れだった。

その評価はずばり………

オンライン授業最高じゃん!!

というものである。

大学に行かなくていい。これが非常に大きかった。大学に行くのに移動で10分、着替えをするなどの準備の時間30分くらい、計40分間を節約できる!!その間、寝るもよし、優雅に朝食を取るもよし、本を読むもよしと自由時間増加ァ!オンライン授業は基本的に顔出しなしで、zoomで授業を受ける形式が多かった。だから、顔を見られない以上、パジャマだろうが寝癖がついていようがモーマンタイなのである!!

課題が多くて大変だったという声も聴くが、個人的には大したことではなかった。集中してあることないこと書けば、瞬殺できるものばかりである。

あと、学食を食べたり、生協に行かなくなるのでお金を節約できるぞ!

いいことずくめじゃん!と思っている。

 

オンライン授業で大学のボロが見えました……

 

ここまで、オンライン授業万歳!!と言ってきたわけだが、もちろん不満もある。大きく2つ。

1つ目は、個人の通信環境にかなり依存するということだ。私の住んでいるアパートは通信環境が最悪で、zoomやteamsの回線がプツプツ切れる状態だった。また、安いPCを買ってしまったため課題のアップロードなどに時間がかかるなどストレスえぐい状態だった……

ただ、通信環境は自分で改善することができるのでまだましである。問題は2つ目の不満。

例年と比べてレベルが極端に下がった講義があるということである。

私がひどいなと思ったのはレジュメをアップロードして毎週〇ページ自分で読んでいくというような授業であった。これでは何のために講義を取っているのか分からない。

ネットサーフィンすればその程度の情報は手に入る。ネットで手に入れられる情報をわざわざ大学で高い金を払って取得する意味はあるのだろうか。

 

知識のインプットはそんなに重要だろうか

 

大学の講義では、ゼミナール活動に代表されるような議論を重視する講義知識のインプットを重視する講義に分かれる。オンライン授業が始まる前でもそうした区分はあった。

オンライン授業で、知識のインプットを重視する授業の形式が増えたように感じる。

現代社会において、知識のインプットは必要だろうか。

答えは否である。

なぜならば、知識のインプットはコンピュータが行ってくれるからである。インターネットを潜れば、様々な情報が手に入る時代。ひたすら頭に知識を入れる講義は時代遅れではないだろうか。

コンピュータが人々に使われだす前はそれが有効だった。

20世紀は「規格化」の時代と呼ばれている。工場労働に合わせて、マニュアルが読めて、自らも機械の一部となるような教育が施された。知識のインプットをすることで現場での作業をスムーズにするという意義が昔はあった。

しかし、現代は21世紀である。知識は覚えるものから、活用するものになった。インターネットの出現から情報は溢れるようになり、それをいかにアウトプットしていくかが重要になった。

オンライン授業が暴いたのは、大学の講義の大半は20世紀的なインプット重視の教育であるということである。つまり大学で学べることの大半はネットでも勉強可能ということ!!

 

学歴のために大学に行く人々

 

ネットに転がっている知識をなぜ、高い金を払って大学で身に着けようとするのか。国公立大学は授業料年間52万円だからね……

みんな学歴が欲しい!!ということだろう。現代社会では、大卒であるということは結構重要で、高卒や専門学校卒より給料が高くなるのである。

本人の実力とは別にして学歴がものをいう社会、だからみんな大学へ行きたがるということである。本当はその本人が優秀かどうかで報酬が配分されるのがいい。学歴という高校時代の産物でしかないもので一生、人生を規定されてしまうのはやはりおかしくはないだろうか。

よく日本の大学生は遊んでばかりだという声を耳にする。しかしそりゃそうでしょという感じ。ネットで手に入る情報を講義形式でインプットするのはあほらしいから……

しかし、今の日本に若者を遊ばせておく余裕などないし、産業構造が変化している今、ネットで手に入る情報を大学で教えている余裕もない。

 

今、大学変革の時ですよ!

 

じゃあどうすればいいか。

とりあえず、大学は議論をしたり、質問したり仲間とコミュニケーションをとる場に変わるべきだろう。知識の吸収よりも知識をどう活用し、新しいアイデアを出すかという基準にシフトするべきだ。

そのうえで、学歴なるものは廃止しよう!エントリーシートに学歴を書くのを禁止し、書いたら死刑!(大げさに言ってるだけよ……)という法律を作って研究者になりたい人だけが大学に行くようにするべきだろう。

オンライン授業は継続して行うべきである。大学入試は本来、大学で教えられる人数に限りがあるから行っていたわけで、オンラインで実質キャパシティは無限になったので、オンライン大学を作って授業を行って大学の知識、技術をどんどんオープンソース化しよう!

知識の吸収はネットでできる。発信していく力や分析する力を育てる機関として大学は変わっていくべきだろう。

 

おわりに

 

コロナ禍で社会は間違いなく不可逆な変化を迎えるが、大学教育もその一つであると思う。オンライン授業は適切に活用して、アウトプットの場として生まれ変わる必要があると思う。

まあ、2021年度の大学の講義は対面らしいですけどね………コロナ感染者が2020年の今頃より増加しているのにもかかわらず、対面授業に戻すのか説明はないままである……まさに事なかれ主義の極致!!お役所仕事!!

文部科学省の計画ありきで決めるのではなく、現状に対応して動いてほしいものである。

 

生きる技法

生きる技法

  • 作者:安冨 歩
  • 発売日: 2011/12/23
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)