藤原辰史:パンデミックを生きる指針— 歴史研究のアプローチを読んで

 明日はいよいよ高校生とのコラボゼミ。ある資料を読んでそれについて話すというもの。正直全く話せる自信はない。コミュニケーション能力はもちろん、知識においても欠乏している。今回コラボするのは高校3年生。受験生って知識量半端ないんだわ!大学生ならではを活かしつつどう立ち回っていくか。。。ウダウダ言っててもしょーがないのでゼミで使う資料『藤原辰史:パンデミックを生きる指針-歴史研究のアプローチ』の感想、考察をつらつら書いていくぅ!

 

文献

https://www.iwanamishinsho80.com/post/pandemic

 

1, 起こりうる事態を冷徹に考える

◯要約

 人間という生き物は危機が訪れたとき、楽観主義に陥り、現実から目を逸らしてしまう生き物である。今回のコロナ禍においてもそれは同様だ。そして楽観主義はやがて根拠のない確信へと変わる。為政者の楽観と空威張りをマスコミが垂れ流し、多くの国民がそれを信じる。

 そのような楽観主義や自らに都合の良い解釈を除外して、客観的に史料を読み込む技術を歴史学者は持っている。想像力と言葉しか道具を持たない文系研究者であるが、現在の状況を生きる指針を探る手がかりを提示しようと思う。

 

◯感想・考察

 だいぶざっくりとした要約で、自信ないけど許してくれー!

 この章を読んでやっぱり文系って大切だよなーと改めて思った。この文書にある通り、文系研究者は新型コロナウイルスのワクチンを作ったり、治療薬も作れない。でも、希望的観測を捨てて歴史を客観視できる!ドン!ONE PIECEのアーロン編のルフィ感があってめっちゃかっこいい!その文言パクろッ!

 学問にはできることできないことがあるから支え合って成り立っているわけである。近年、日本では文系学部は縮小すべきだという意見が支配的である。今だけ、金だけ、自分だけの精神からすれば、文系学部とは非効率で金にならないお荷物のようなイメージなのだろう。そんな中、筆者は「歴史学者は、発見した史料を自分や出版社や国家にとって都合の良い解釈や大きな希望の物語に落とし込む心的傾向を捨てる能力を持っている。」と言い切った。文系研究者としての意地をそこから読み取ることができる。ドン!

 

2, 国に希望を託せるか

◯要約

新型コロナウイルスの魔の手は日本にも及んでいる。危機が迫るとき人は強力なリーダーに頼ろうとする。情報を詳かに公開し、異論に寛容で、データを改竄せず、部下に改竄を押し付けず、文書を尊重し、歴史を重視する政府ならば多くの人を救うことができるかもしれない。しかし日本政府はこれらを満たす努力を放棄してきた。加えて、「緊急事態宣言」によって基本的人権を侵害する機能を内閣に与えてしまった。緊急事態の名の下に多くの蛮行が許容された歴史は枚挙にいとまがない。

 

◯感想・考察

 この章は現政権への批判がビッシリギュウギュウに込められている。

 情報を隠すことなく提示する。残念ながら黒塗りの資料がお馴染みとなりつつある。

 異論に対して寛容である。誰かが言った!「こんな人たちに負けるわけにはいかない!」

 データを改竄したり、部下に改竄を指示したりしない。赤木俊夫さんは無念のうちに亡くなった。。。

 後世に残す文書を尊重する。文書はシュレッダーへGO(๑˃̵ᴗ˂̵)テヘペロ

    歴史を重視する。自分にとっての気持ちええ歴史だけ見ることにします!

 っとこんなふうな逆走ぶり。お前は『I"s』の瀬戸一貴かッ!おそらく藤原辰史氏は昨今の政治喜劇を苦虫を噛み潰したような気持ちを抱いていたに違いない。それに激しく共感してしまうのは私だけだろうか。

 

3, 家庭に希望を託せるか

◯要約

 国家に頼らない以上、家庭にその重荷がのしかかる。しかし、在宅勤務が難しい親は子どもを不安のままに家に残していかなければならない。親は不況に自らが解雇されるかもしれないという恐怖と子を一人残す不安と闘っている。家庭は安全とは言い難いだろう。 

 そもそも日本は「子どもの貧困化」が進んでいる国である。給食や子ども食堂はコロナ感染のリスクから開けない。また、外出自粛以降、家庭内暴力が増加したというデータが海外にはある。そうした家庭内での問題を抱える子どもや女性にとって家庭は牢獄である。コロナ禍によって、地域コミュニティに頼ることはできない。

 家庭はすべての人にとって決して安全ではないのだ。

 

◯感想・考察

 家庭は安全ではない。その言葉はかなりの衝撃であった。私は幸い、円満な家庭に生まれたためご飯に困ることも虐待もなかった。しかし、私にとっての当たり前を享受できない家庭もあるということを肝に銘じておかなければならない。


4, スペイン風邪新型コロナウイルス

◯要約

 新型コロナウイルスを考える上で参考になるのはスペイン風邪である。

 スペイン風邪とはアメリカを震源とする100年前のパンデミックだ。1918年から1920年まで足掛け3年、死者数は少なく見積もって4800万人、多くて1億人である。コロナとの類似点は、ウイルスが原因であること、国を選ばず地球規模で広がったこと、巨大な船で人が集団感染して亡くなったこと、どちらも初動に失敗したこと、デマが広がり、著名人が多数亡くなったことである。

 ただ当時はインフルエンザのウイルスを分離する技術がなかった。また人口規模、SNSの普及、WHOの存在など違う点も多い。どちらに転ぶかは分からない。

 スペイン風邪が広まった当時は日本では米騒動、シベリア出兵、世界では第一次世界大戦が勃発していた。兵士は換気が悪く、栄養状態も芳しくなく世界各地を移動していたため感染が広がった。今回は観光地への人の移動が頻繁であることが特徴である。

 

◯感想・考察

 はいそこ!要約なのにだんだん長くなってるとか、要約ヘタクソ!とか言わないッ!

 この章では新型コロナウイルススペイン風邪との共通点と異なる点を述べている。

 虫歯が感染の要因でもあったことは意外である。たかが虫歯と思っていたが、口の中は菌の温床らしくいつもより歯磨きちゃんとやろうと思った。

 また、この章のキーワードはオーバーツーリズムである。観光地が耐えられる以上の観光客が押し寄せる状態をいう。世界遺産に認定された富士山で大量の観光客がゴミを落とし、それをきれいにするコストがかさんだりなどがオーバーツーリズムの悪しき例であろう。

 日本は中国からの観光客がいかにお金を落とすかというのに必死になっていた。その結果、中国人の入出を抑えられずコロナが広がってしまったというふうに言われている(中国人の入出を抑えたところで感染を抑制できたかは分からない)。コロナ以降、観光のあり方というのは確実に変わっていくだろう。

 

5, スペイン風邪の教訓

◯要約

 スペイン風邪は多くの教訓を我々に残している。

感染症の流行は一回では終わらない可能性があるということ。

②体調が悪いと感じたときに無理をしたりさせたりすることが蔓延を広げ、病状を悪化させたこと。

③医療従事者へのケアは怠ってはいけないということ。

④情報の開示は素早い分析をもたらして事前に感染要因を包囲できるということ。

⑤データをきちんと残して、歴史的に検証できるようにしなければならないということ。

⑥政府も民衆もしばしば感情によって理性が曇らされてしまうということ。

⑦清掃崩壊の危険性があるということ。

⑧為政者や官僚の感染者が増えて行政手続きが滞る可能性があるということ。

 

◯感想・考察

 私が特に気になったのが、⑥の感情によって理性が曇らされるということである。これは現に起こっていることである。5Gがコロナを広めているというデマやトイレットペーパーの買い占めなどは普通に考えればありえないことである。しかし、恐怖に囚われた人間は理性を働かせることができず、なにそれアホかよッ!と思うような行動をとってしまう。感情にとらわれぬよう空条承太郎のような冷静さを忘れないでおきたいッ!! 

 

6, クリオの審判

◯要約

 新型コロナウイルスが鎮静化しても危機は去ったといえない。ウイルスに怯える人間はなにをしでかすか分からない。人々は個別生体管理型の権威国家や自国中心主義的なナルシズム国家を求めるかもしれない。世界秩序と民主主義の後退が本格化する可能性がある。

 また、「減菌」するための消毒サービスが流行し、それによって人々は潔癖主義に取り憑かれ人間にとって有用な菌やウイルスが絶滅する危機が起こる可能性もある。潔癖主義と人種主義が結びつきナチズムが台頭するかもしれない。

 このような悪い想像はいくらでもできるが、未来への指針めいたものを探ることもできる。

 第一に、手洗い、うがい、入浴、食事、清掃、睡眠などの日常の習慣を誰からも奪ってはいけない。

 第二に、組織内、家庭内の理不尽な命令に対してそこから逃れたり、異議を唱えたりすることを一切自粛しない、させないこと。

 第三に、戦争や五輪など、災害や感染などで簡単に中止や延期できないイベントに国家が精魂費やすことは時間、税金の損失になるということ。

 第四に、グローバル化の陰で戦争のような生活を送ってきた人たちにとってコロナの飛沫感染の危機がどのような意味を持つか考えること。

 第五に、危機の時代においても、情報を抑制することに異議申し立てをやめないこと。

 国家を測る基準は様々あるが、最も大切なのは弱者に対する態度である。危機の時代だからこそ、人の制度の本領が試されている。パンデミックを生き残るのに相応しい国なのか、歴史の女神クリオは常に問い続けている。

 

◯感想・考察

 この章では、未来を生きる指標を探る手がかりを提示している。指標を提示するのではなく、その手がかりを提示するというあたりに、筆者の一歩引いた姿勢がうかがえる。パンデミック後の指標は手洗いを具体的にいつするとか、人とのソーシャルディスタンスは何メートルだとかそういうものであろう。その指標はあくまでも理系研究者の仕事であり、文系研究者は細かく指摘することはできない。しかし、文系研究者としてその指標を提示する土台の部分を提示しようと試みているのだと思う。

 その上で、私が注目したいのが第四の「危機は、生活がいつも危機にある人びとにとっては日常である」という文である。我々は、なんとなく平和に暮らしたきたが、今回の新型コロナウイルスによって全員が平等に不便になり、不安な日々を送るはめになった。しかし、コロナ以前に危機的な状態で生きていた人たちは大勢いる。戦闘機の墜落に怯える人たち、原発事故にあった人たち、長時間労働に苦しむ労働者。私たちはこうした人たちをつい忘れてのほほんと生きてきた。なんとなく将来の夢に明け暮れたり、趣味に没頭したり、家族、恋人と暮らしたりしていた。半径3メートルの中で夢を見ていた。全員が危機的な状態である今日、我々は他者の危機に以前よりも敏感になれるのではないだろうか。他者の不幸を自分の不幸と捉え、少しずつ変えていけるのではないか。そう筆者は投げかけている。

 歴史の女神クリオは複雑な表情でコロナ禍であえぐ人間界を見ているに違いない。なぜならそれは人類にとって危機でもあり、変革のチャンスでもあるのだから。

 

 

給食の歴史 (岩波新書)

給食の歴史 (岩波新書)

  • 作者:藤原 辰史
  • 発売日: 2018/11/20
  • メディア: 新書