抽象的、観念的な言葉に気をつけよう。

 最近Twitterを見ていて思ったのが、右派左派問わず抽象的な言葉を目的に添える奴が多いなということである。

 日本のため、国益を守るため、社会のため、世間への配慮、常識がうんたら、将来のためetc……

 しかし、これらの言葉は空っぽである。日本とは何だろうか、国益とは何か、社会とは何を示しているか、世間とは誰か、常識とはどういったものか、将来はいつからいつまでで確約されているのか。何かを表しているようで、実はざっくりとした括りで適当なことを指しているに過ぎない。

 内田樹先生の本で身体性が伴わない言葉は危険だというのを読んだことがある。観念的な言葉を聞いても体は動かないが、現実に即した具体的な言葉だったらなんとなく筋肉の鼓動を感じるような気がする。

 社会や日本という言葉を使わず、友達や家族、今の生活のためというふうに翻訳した方がよっぽど健康的だろう。そうした方がより平和的だし、牧歌的でなんだか楽である。

 頭のいい人間ほどこうした抽象的で観念的な言葉を使うのが得意である。またそうした言葉を使って人々に啓蒙しようとする人たちは一定数いる。気をつけなければならない。何を指しているのか曖昧な言葉でなんとなく言いくるめられる可能性があるからだ。

 かといって知性を軽んじているわけではない。もちろん抽象的な言葉の中に真理があったりするのだろう。しかし、そうした言葉を目的や対象として置いている場合は注意しなければならない。