あなたは専門家と科学者の違いを知っていますか?『信頼の条件 原発事故をめぐることば』感想

おはよう!こんにちは!こんばんは!KAIです。最近、漫画ばかり読んでいて活字に触れていないッ!これは由々しき事態デアルッ!

なのでちょっと硬めの本を読んでみました!それがこちら!!影浦峡先生の『信頼の条件 原発をめぐることば』です!

 

 

 

あらすじ

 

 2011年3月11日に起こった原発事故。その後の状況を通して科学、科学者、専門家への不信が表面化した。事実として誤った言説が跋扈し、あらうことか受け手である市民に責任転嫁が行われる始末である。専門家と呼ばれる人間のねじ曲がった論理構造に注目し、問題点をあぶりだした本書。科学が信頼を取り戻すために必要なリテラシーを説いた魂の論文、爆誕

 

感想

 

全部で100ページくらいなので割とすぐ読めました。安冨歩先生が一月万冊で紹介していたので読んでみたのですが、結構考えさせられる本です!2011年3月11日に起こった原発事故をめぐる「専門家」の言説について取り上げた本ですが、コロナをめぐる言説と似た構造だと思いました。

とりあえず、面白かったところをpickup!!

 

科学者と専門家の定義

 

本書の重要なキーワード、科学者専門家。この二つの定義は次のようなものであると著者は述べています(本書、p13)

科学者
新しことを探求し、自分の発言に挙証責任を負う人。「新しいことを探求し」といっても、何か大それたことを想像する必要はありません。何かがわからないときに、そのわからないことを理解しようと努める人を普通に想定すれば十分です。
専門家
ある領域に関してこれまで解明された知識や技術、ノウハウを十分に有している人。

この2つの定義を見たとき、何の違いがあるんだ??と思った人がいるかもしれません。そこで科学とは何かという問いに答えることでその違いが見えてきます。

 

科学とは何ぞや!?

 

科学とは何かという問いをめぐっては多くの議論があり、一概にこうとは言えないのが現実です。しかし、科学の性質や属性は一定の共通理解があると影浦氏は述べます(p11、強調KAI)

・科学は新しいことを扱う。「新しいこと」には、普通の意味で未知であるものだけでなく、既知だと思っていたことに新しい観点から理解を促すことも含まれます。既知の未解決問題に答えが与えられる場合も、問題そのものが新しい場合もあります。新しいことを扱うのですから、これまで十分に説明できなかった現象や例を重視することになります。
・科学的な主張をするときには、その主張を支えるデータや関連する知見を、主張するものが主張とともに提出する義務を負います。
・科学における主張は、それを支えるデータや過去の知見とともに、他の科学者が妥当性を検討できるような明確さと論理性を備えていることが求められます。

科学にはこのような性質を持っています。そしてその性質は科学的知識と関係しています。以下引用(p11~12、強調KAI)

それぞれの時代で「科学的事実」と認められていることは、あくまで、もっともらしい、あるいは現実的有効性の高い仮説です。科学においては、基本的に、それらがこれからもずっと「科学的事実」であり続けるかどうかはわからないという共通了解があります。(中略)……データやこれまでの知見とともに、他の科学者が妥当性を検討することができるようなかたちで提出することが一応の約束となっていることは、「科学的事実」が絶対的なものではなく、常に批判的検討の対象となることを受け入れていることと対応しています。

科学は時代が進み、別の有効性が高い仮説が提示されれば更新されるものであるということです。

そして他の科学者が検証しやすいようにデータ、論理性、他の関連性が高い知見を提出しなければならない。

多くの人が思っているような科学観とは違うのではないでしょうか。科学的事実は圧倒的に、絶対的に唯一無二の真理くらいに思っている人が多いと思います。科学的に○○です。と言われれば手も足も出ないというか………

しかし、科学とは現状分かっている範囲では、○○という仮説が成り立つ可能性が高いというものでしかないということが分かりました。それを踏まえて上述した専門家科学者の定義を見ていきます。

 

科学者と専門家の違い

 

ずばり!!分からないことに対する対処、態度が違うと言えます。

科学者は分からないことを明らかにするために努力しますが、専門家は専門的知識の中で閉ざされています。

「知らない」ことを前提としているか、「知っている」という前提とするか

ざっくりいうとこんな感じです。

科学者は「知らない」前提なので、何か予測と違うことが起こった場合、仮説を揺り変えるべく努力し、それによって説明を試みます。

専門家は「知っている」前提なので、何か予測と違うことが起こった場合、自らが持っている専門知識で説明しようとします。

この違いはとても重要です。日本で起こった2011年の原発事故。この事故をめぐって発言した識者の中には、科学者としての態度ではなく、専門家としての態度をとったものがいました。

 

科学の限界は科学の勝利!?

 

原発事故では「想定外」という言葉が使われました。事故は常に「想定外」だろ……想定できる事故ってなんだよ……というツッコミは置いておいて、専門的知識の体系では起こりえなかったことが起こったわけです。

これに対して専門家はどのような態度をとったか。

ないものとして扱ったのです。

原発の専門知識の体系の中では、原発とは絶対安全の存在でした。事故によってそれが覆る事象を見ているのにもかかわらず、「絶対安全」という方向へ論理を展開しました。

『信頼の条件 原発事故をめぐることば』の中でたくさんの専門家たちの発言が引用されていますが、事故は大したことはなく、安全ですというものばかり。

専門的知識の体系を信奉するものにとって、それは権威であり、科学というより宗教です。専門の中で閉じて現実の問題を直視しない。これが当時の「専門家」と呼ばれていた人たちの態度でした。

科学的に分かっていないことは、科学の限界であり、決して科学の勝利ではありません。分かっていないというだけで、完全に科学によって解き明かされたわけではないのです。

コロナ禍によって、専門家と呼ばれる人がメディアで日々情報を発信しています。彼らが単なる専門家ではなく、科学者としての態度を持ち合わせているかどうか注意しなければいけません。

 

不安になる市民が悪い!?

 

誤解を与えたのであれば、謝罪申し上げる。最近、国会で耳にする言葉である。誤解したあなたが悪いのであって、私は悪くないんだからねっ!!というように聞こえてならない。

そもそも誤解させるようなことをしたお前が悪いやろ!!と思うのは僕だけだろうか。

このようなあたかも受け手である市民に責任があるかのような発言というのは原発事故でもあった。放射線で不安にならないで……と不安の種を生んだ政府が発表するのは笑えないコメディである。

事故を起こした側の責任を隠蔽しつつ、市民に責任転嫁することば……こういう専門家に注意です!!

彼らの発言をよく聞いて、馬鹿だなぁと鼻で笑ってあげましょう!

 

おわりに

 

コロナ禍をめぐり様々な立場の人間が様々な発言を繰り広げている今日この頃。本質的には原発事故のときと変わらないと考えていいと思います。

アメリカの○○大学卒業後、○○大学院で修士を取得、などというような肩書に騙されず、こいつの言っていること本当に正しいかと懐疑の目を向けることが大切だと思います。

本書の最後で影浦先生は専門家が科学的態度を取り戻し、それによって行動することが大切であると述べています。それだけではなく、受け手である市民の側もリテラシーを持ってニュースを見ていくというのが重要です。

原発事故のときの専門家の欺瞞に満ちた言語を取り扱った本は、『信頼の条件 原発をめぐることば』以外にも安冨歩先生の『原発危機と「東大話法」-傍観者の論理・欺瞞の言語-』というものもあります。この本もコロナ禍をめぐる言葉に関係していると思いますので、是非ご一読を!!

 

原発危機と「東大話法」―傍観者の論理・欺瞞の言語―