おはよう!こんにちは!こんばんは!KAIです。
最近、流行の言葉にビーガンというものがあります。肉や魚、卵や乳製品、動物由来の衣類などを避けている人たちです。
僕は正直、ビーガンは胡散臭いなあと思っていました。動物が可哀そうという感情的な理由で肉を食べない変わった人たちくらいに思っていました。
しかし、田上孝一先生の『はじめての動物倫理学』を読んで愕然としました!!めちゃくちゃ論理的な理由があったからです!論理が一貫していないのはむしろ肉を食べている私たちかも……!?紹介していくぅ!
多様性の尊重から動物倫理が生まれた!?
まず、現代社会の常識として多様性の尊重がある。
人類の歴史は差別とともにあった。
女性は選挙権をつい最近まで持っていなかったし、子どもは親の所有物であった。障がい者の権利について議論されるようになったり、肌の色の差別について議論されるようになったのも人類の長い歴史を鑑みればついこの間である。もっとさかのぼれば売買される対象、すなわち奴隷が当たり前に存在していた。
しかし、近代に入ってからは、「人権」という概念が用いられ人間社会の中で浸透し、差別は解決しなければならない問題であると認識されるようになった。
多様性の尊重は特定の人間像を採用しないということである。
昔は成人男性の権利しか認められていなかった。これは成人男性のみ「理性的存在」であり、それが適切な人間像であると考えられていたからである。
そうなった場合、女性は男性ではないから人間カテゴリーから外される。子どもは十分に理性的存在でないとして認められない。何らかの知的な障がいを持つものは「理性的」と呼ぶことはできない。
このように特定の人間像(成人男性など)を採用した場合、その枠からはみ出てしまった者は「人間」として認められなくなる。そうであるから、人間像の射程を広く捉えるのが、最近のトレンドであり、それが多様性の尊重につながると考えられている。
では、僕たちが伝統的に前提としている人間と動物の絶対的な区別は可能だろうか。
否というのが動物倫理学である。
ここで注目してほしいのは動物の権利なるものを認めようという動きの根っこは多様性の尊重にあるということである。人間を絶対的なものさしで見るのではなく、相対的に見ていくと人間概念の射程はついに「動物」にまで達したということである。
カントの伝統的な動物観
では、僕たちになじみ深い伝統的な動物観というのを確認していきたい。
伝統的な動物観では人間にとって動物はあくまで物としての物件である。
例えば、僕たちはペットショップで犬やら猫を購入する。人間が店で人間を買う即ち奴隷は現代社会でお目にかかることはないが、犬や猫は購入可能である。これは犬や猫を物件のように売買可能であると認識しているからである。
人間を売買してはいけないのは、手段としての物ではなく目的的な人格であるからだ。これはカントの哲学である。しかし、カントも動物は目的的な人格であると考えず、物として扱うことを是とした。
人間が犬や猫を大切にするのは物を大切にするということと同じことである。あくまで人間の気分によって「動物」の扱いを決めていることに動物倫理学は反対する。
人間を手段ではなく目的として扱うことを説いたカントですら動物を物として扱う動物観を支持しているということを見てきた。
デカルトはもっとはっきりとカントよりも一貫した理論を提唱している。それが動物機械論である。
デカルトによれば人間も動物も神が創造した精巧な機械である。しかし、人間は思惟することができる、心ある機械であり、動物は心がない機械である。そして心がないために動物は苦痛を感じない。苦痛を感じているように見えるだけである。
動物は心のない機械であるから、人間が好き勝手に扱っても問題ない。神が一応、創造したものであるから猟奇的な趣味で殺したりするのはよくないが、肉を食べたり、毛皮をはいだりする分には問題ない。
動物機械論は動物を利用したい人間にとってとても都合の良い理論である。
だから、動物機械論は動物の生体解剖をする際の慰めとなった。昔は麻酔はなく、生体解剖や手術などの際、動物が苦痛に悶え暴れることがあったというが機械がそのような反応を示しているだけだと考えると気が楽になる。
痛々しい話だよぉ………
人間と動物の境界線とは……!?
ここまで読んでいただいた人はなんとなく話が見えてきたかもしれない。もうちっとだけ続くんじゃ……
デカルトやカントは人間は動物は根本的に異なっているという考えをとっていたことは確認してきた。
肉体は動物だけ唯一人間だけが理性を持ってる!というのがその主張だ。
しかし、人間と動物は本当に異なるのか。
有名な研究がダーウィンの進化論である。どうやら人間は猿から進化したらしいぞ!という衝撃は人間と動物の境界を揺すぶった。
また、ゴリラやチンパンジーは複雑な音声コミュニケーションを行っているというのも最近の報告で分かってきた。コミュニケーションは人間だけの行いではなかったのである。
そしてコミュニケーションを行えるということは「社会」が存在するということである。実際、家族や仲間に対する愛情あふれる関係が多く観察されるようになった。社会的存在は人間だけではなかった。
まだまだある。道具の使用も人間の特徴であると理解されていたが、実際は多くの動物が道具を組み合わせて使っていることが分かってきている。
最大の発見は二重らせん構造の解明である。人間が動物と異なっているのならDNAも異なっているはずだが、際立った差はないということが分かってきた。
人間と最も近いとされるボノボ(ピグミーチンパンジー)と人間のDNAの差は、ボノボとテナガザルのDNAの差よりも小さいとされるからだ。(p58)
全く同じではないが、ここまで似ているところがあるともはや人間と動物の差はほとんどないということが分かる。人間もただの猿であることがよく分かる。
ここでようやく動物倫理学の基礎が見えてきた。生物学的な知見によって動物と人間の差はないことが分かった。さらにこれをどのようにして倫理学の一分野として成立させたか。
動物倫理学の創始者、ピーター・シンガーの論理を見ていこう。
種差別という言葉がカギである。
つまり種差別とは、人種差別と同じ過ちを、人間と動物の間で犯してしまうことだというわけである。しかしこういえば当然、「それはおかしい、人間と人間との問題は人間と動物との問題とは違う」という反論が直ちに起こるだろう。実はそれが種差別なのである。苦痛を与えることが悪いならば、苦痛を感じる存在全てにとって悪いのであって、それが人間でなくてもやはり悪いのである。(p79)
そして、功利主義的な計算に基づいて人間、動物苦痛を感じるすべての存在へ配慮し人間同様に配慮を説いた。
功利主義は「最大多数の最大幸福」を目指す。その多数の中に動物が含まれたということである。それは動物が苦痛を感じる存在だからだ。
一方で問題もある。
では、動物の苦痛を取り除く手術なりを施せば、畜産や実験に用いていいのだろうか。例えば、感覚神経を取り除いて動物を工場で生産するとか、麻酔を用いて苦痛をなくすとか。
功利主義はこれに反対することができない。快、不快の計算の最大化をから苦痛を取り除けるのであれば不快のマイナスが消え、問題解決!となるのある。
ピーター・シンガーの論理では動物の解放には至らない。功利主義の論理ではむしろ苦痛を取り除けば動物を利用してもいいという結論に至ってしまう。
種差別という概念は新しかったが、功利主義の発想に基づいていたために動物の解放いは至らなかった。
それを克服したのがトム・レーガンである。彼はカントの哲学を利用して動物の解放を図った。
カントの哲学は最初の方にチラッとだけ書いている。それは手段ではなく目的として扱うという考え方である。何の役に立たなくてもただそれだけで価値があるような存在として扱うということである。
そしてそれを人間だけでなく動物にも拡張して適用しようというのがトム・レーガンの主張である。快・不快を感じることができる存在を種差別することなく平等に扱うという動物の権利を認める。こうすることで功利主義によらない動物の解放が達成される。
カントの哲学を応用しレーガンは動物の権利を基礎付けることに成功した。一方で問題もある。
これまでピーター・シンガーとトム・レーガンの論理を見てきた。動物倫理学の骨組みが分かってきたのであるが、やはり完璧なロジックは存在しない。問題点もある。
一つ目は、人間と動物の間に利害対立が生じた際、どう調停すればいいのかという問題である。
例えば、動物と人間が命の危険に瀕している。直すための薬は一つしかない。どちらに注射するか。
動物に権利はないとすれば問答無用で人間に注射するが、動物倫理学では動物の権利を認めるためそうはいかない。動物を助けて人間を見殺しにするということもあり得るのである。
しかし、この考えは多くの人の支持は得られないだろう。動物の権利を認めたレーガンもこういう時は動物が犠牲になるほかないと主張しているが、それでは整合性が取れない。
しかし、このような時はかなり例外である。人間であってもどっちかしか救えないならどちらを救うかで悩むので、動物でも同じだ。
問題は科学技術の発展で人工肉が誕生したり、生体実験を行う理由もなくなっているのに動物を殺しているということである。昔は人間の生活を維持するため仕方がなかった面があるが、今はそうではないのである。
二つ目は、本書を読んでいて僕が気になった点である。
それは、肉食動物はどのように扱えばいいのだろうか、ということである。今後、人工肉などが開発されるようになれば肉食動物もそれを食べるべきではないか。
動物に権利がある以上、肉食動物も草食動物の権利を奪っていることになる。それは人間と同様、昔は必要悪だったが、今後科学技術が発展して栄養学的に十分な人工肉が開発された場合、肉食動物もそれを食べるべきではないか。
肉食動物がよしこれからは人工肉を食べるぞ!と考えを変えることはないだろうから、その時は人間が人工肉を肉食動物の分用意して食べさせることになるのだろうか。
そこまでしないと動物の権利を守ることにならないが、そこまで人間がしなければいけないのか。
何か、権利概念の落とし穴があるような気がしてならない。それは今後の研究を待つことになるのかな!?
おわりに
ここまで長くなるとは思わなかった。丁寧に書きすぎた。ここまで読んでくれる人いるかな………要約の技術をもっと高めなきゃ!!
動物倫理学の骨組みの部分を要約してきた。単にビーガンは動物が可哀そうだからという理由だけで肉を食べないのではなく、こんなに論理的な理論があるとは!正直驚いた。ビーガンの皆さん偏見を持ってしまい申し訳ございません。
ただ、実践するとなると難しい。肉食に慣れてしまった僕はこれから一切食べないとなるとかなり体調を崩しそうだ。ただ、本書は個人で少しずつそういったことをやっていけばいいと述べている。すぐに実践することは難しいからね……まずは自分の生活を見直すところから始めようかな……
やはり、自分の考えと全然違う主張は偏見を持ちやすい。しかしそのような主張にも論理的な理論が存在することが分かって良かった。
もっといっぱい勉強しなきゃね!!!!!
田上孝一先生のマルクスの本も読んでみよ……