おはよう!こんにちは!こんばんは!KAIです。
ついに!ついに!庵野秀明監督の最新作、シン・エヴァンゲリオンを見ました!感無量です!見終わった後の余韻がすごい。情熱が風化してしまう前に、感想をつらつら書いていきたいと思います。ネタバレ注意です!
前提
私はエヴァンゲリオンの細かな設定はよくわかりません。正直、シン・エヴァンゲリオンを見終わった後もチンプンカンプンで何が何だかよく分からないという感じです。
しかし、庵野監督のメッセージはよく伝わった!!
漫画家の山田玲司先生が旧劇版のエヴァ解説を「山田玲司のヤングサンデー」で行っており、エヴァという作品は庵野秀明監督の私小説であると結論付けていました。
庵野秀明監督は1960年生まれ。戦争を経験した世代のだいぶあとに生まれており、生まれたときからアニメや特撮に触れ、楽しんでいた人類で初めてのオタク、オタク第一世代。上の世代は戦争体験という圧倒的な暴力を受けたこともあり、作品の中にそうしたメッセージを織り込んだり、アニメ黎明期であったこともあり様々なオリジナリティあふれる表現方法を開拓したりしている。オタク第一世代である自分の人生には戦争体験もなければ、オリジナリティもない、あるのはオタクとして見てきた作品の数々と圧倒的に個人的で主観的な感情の吐露しかない。だから、エヴァには庵野秀明監督自身のプライベートな経験や感情そのものが凝縮されている。
おそらく、このような説明であったと思います。
超解説「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」〜魂の全裸監督・庵野秀明の本音告白アニメの果て・山田玲司のヤングサンデー第182回【293】
私の感想はそれを踏まえた上でのものになります。庵野監督、あなたの言いたいことが分かりましたよ!!
時間がない人向け、一言でずばりシン・エヴァのメッセージ!
25年の月日は少年を大人にした!
結婚して自分は大人になりました!
エヴァの呪いを解体して、自分は再出発するぜ!君も前に進みなよ!
というのが庵野監督が伝えたかった事なのでは!?
物語冒頭、シンジ一行はとある村に行き、14年間を経て大人になったトウジ、委員長、ケンスケと再会する。
トウジと委員長は結婚し、子どもが生まれ、町医者として働くようになっていた。ケンスケは村の何でも屋として働く。
エヴァ破においてニア・サードインパクトを起こしてしまう。そして大切な友達だったカヲルを失う。すべてに絶望してシンジ。そんなシンジにトウジは語り掛ける。
ニア・サードインパクトで多くの命が失われたが、救えた命もあった。
(大体のニュアンスで書いているので細かいところは適当です)
この言葉は庵野監督自身の言葉のように聞こえる。
エヴァンゲリオンという言葉のもともとの意味は「福音書」である。福音書はイエス・キリストが誕生して弟子を引き連れ、処刑された後に復活するという物語が描かれている。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネによる福音書が存在し、微妙に記述が異なっているがそのどれもが神の言葉として大切にされてきた。全知全能の神の言葉、世界に矛盾があってはいけない。だから、矛盾を「解釈」によって解決する神学というのがヨーロッパ社会で発展していった。
庵野監督による「エヴァ」も神学的な発展を遂げていく。当時の感情の爆発、実存への悩みを描いた私小説がファンの解釈により膨張し、一大ムーブメントを起こした。この流行を庵野監督はどのように感じていたのだろうか。
自らの手を離れ再生産を繰り返す物語を苦々しく思ったのではないか。エヴァの監督としての自分。それは呪いのように自らを蝕んでいったのかもしれない。
そしてエヴァの作品としての呪いはファンにもむけられる。エヴァという完結した物語に閉じ込められた人間は成長することなく14歳のときのまま年月が過ぎ去っていく。
一方で、呪いは「救い」でもあったはずだ。エヴァンゲリオンという作品に救われた人間は大勢いると思う。シンジというキャラクターを通して他者とのふれあい、自分との向き合い方を何か学んだ人もいると思う。
それらを踏まえた上でで、トウジの台詞に戻る。
エヴァンゲリオンと作品を作ったことにより自分もファンもエヴァの呪いにかけてしまった。しかし、それは一部の人間の命を救ったんだ。
トウジの台詞が庵野監督がそのような感情の吐露に聞こえた。一方でトウジは大人になっていた。自分も大人になり、作品に落とし前をつけなければならない。ここでシンジと庵野監督は重なる。
25年の歳月は少年を大人にしました。
物語の終盤。人類補完計画を発動させたゲンドウ。
(ネブカドネザルの鍵を取り込んだゲンドウがモノアイで、目から光線放ってるのちょっと笑いそうになりました。)
実は今回の補完計画はゲンドウ自身によるものであった。ここが旧劇と大きく異なるところだろう。
実はゲンドウの過去の掘り下げはあんまり行われてこなかったし、旧劇はシンジの補完というのが主であった。
このシンジからゲンドウへの変化が面白い。おそらく狙いというかメッセージは2つあると思う。
1つ目は、庵野監督自身の変化である。
旧劇場版でプライベートな感情を爆発させた庵野監督だが、新劇を作る前の2002年に漫画家である安野モヨコ先生と結婚している。旧劇ではシンジと同じような思春期の青年のメンタリティであった庵野監督。しかし、結婚を通して、年月を経て、大人であるゲンドウになった。
身体的な変化と別にシンジとゲンドウのメンタリティの部分では違いはなかったことが本作で明らかとなる。他人とかかわることで自分も他人も傷つけることが怖かったゲンドウ。しかし碇ユイと出会うことでそのままの自分でいいんだということに気づく。碇ユイとは安野モヨコ先生なのだろう。
25年の月日によって、シンジ=庵野監督は歳を取り、そしてユイ=安野モヨコとの出会いによって精神的にも成長した。もう旧劇のときのような青臭さと未熟さをもつシンジではない。25年の月日は庵野監督を成長させ大人にしたということである。
2つ目は、当時少年で旧劇場版を見て育った人へのメッセージ。
当時少年として青年としてエヴァを見ていた人たち。彼らはもちろんシンジの気持ちに乗っかって物語を見る。思春期のぐちゃぐちゃした気分、誰かに認めてもらいたい気分、異性との接し方が分からない、自分って何だろう。そうした思い全てをシンジに重ねて、思いのたけを叫んだ青年。
それが25年を経ていっぱしの大人になっていた。補完計画の主体の変化、シンジからゲンドウへという変化はそのまま視聴者が重ねた月日なのである。勉強したり、仕事をしたり、恋愛したり、結婚したり、様々な経験を25年間で積み上げた。
あなたはどんな25年間を過ごしましたか?成長できましたか?
という庵野監督からの問いかけでありメッセージである。
エヴァという舞台の解体と再出発
物語は最終盤。シンジはそれぞれのキャラクターとともにエヴァンゲリオンという作品の舞台の解体を始める。
機材を撤収し、骨組みを取り外し、土台を運んで、扉を閉める。
この作業は庵野監督自身のエヴァという作品に対する責任の取り方を表現しているのだろう。
自らの手を離れ自己増殖をするエヴァという作品。エヴァの呪いに終止符を打つ。その強い覚悟がうかがえた。
そして物語ラスト、シンジは声変わりしマリとともに電車に乗る。
シンジの声変わりはエヴァの呪いが解けたことを表している。エヴァという舞台を解体したことで止まっていた時は動き出した。俺は仕事をやり遂げたぞ!という庵野監督の声が聞こえる。
マリ=真理なのではないかとふと思った。謎のキャラクター、マリ。彼女はゲンドウがユイと出会い、シンジが生まれ、エヴァに乗り、補完計画を止め、答えを出すという物語をすべてを見ている。補完計画のその先の答え、ある意味では真理のようなものに納得し、電車に乗るのである。
電車とは再出発の象徴だろう。シンジはマリ=真理の手をつなぎ電車に乗り込み出発した。庵野監督はエヴァという舞台を解体し、呪いを解いた上で、俺は先に進むぞ!君の一緒に前に進もう!と視聴者に語り掛けるのである。
終わりに
僕がエヴァに出会ってから14年。(新劇から入ったので)
映画を見終わったとき、14年間の思いが去来した。いろいろなことがあったなぁ。
エヴァンゲリオンという作品が終わってしまったことへの寂しさが湧いてくる。長いこと楽しませてくれた作品だ。思い入れもある。友達と語った思い出もある。しかし、「終劇」の二文字をみたとき本当におわるんだなと確信した。庵野監督の強い覚悟がにじみ出ていた。
しかし、ここで悲しみにくれ、立ち止まってはいけない。
庵野監督が俺は再出発するし、君も前に進もうと語り掛けているのだから。
1つの終わりは新しい始まりという言葉が好きだ。エヴァンゲリオンという作品が終わってもなお、僕の人生は続いていくのである。始まりに希望を見出して……
父に、ありがとう
母に、さようなら
そして、すべてのチルドレンに
おめでとう!!!!!!!