語りえないことは沈黙しなければならない。

 この頃日本で流行るもの。コロナウイルス。虚言。差別。搾取。東大話法。ルー大柴ばりの英語。責任のなすりつけ合い。楽観論。投機的な取引。汚職。ヤリチン。ヤリマン。不倫。レイプ魔。欺瞞。無能な政府。職業倫理の欠如。なんかやってる感。世論操作に長けたマスコミ。正義と称したリンチ。思考停止野郎。ハラスメント。ネトウヨ

 この時代に生まれて令和を迎えたが、不思議なことばかり見聞きする。ここでは日本の人々が口ずさんでいる噂の十分の一を漏らしただけにすぎない。

 二条河原落書をパクって書いてみたが、結構言葉がいろいろ出てくるので自分でも驚いている。国が傾きかけているまさにその時に生きており、その歴史を間近で見れるのだから幸運かもしれない。

 Twitterを見ているとこの後に及んでまだ政権を批判するなと言っている人がいた。もう危機は迫っているから政権批判などしないで自己防衛に努めてください!というような中身ならまだ分かるが、検査数に比べて感染者が少ないので安心して的な中身であった。

 そのデータを見て、今後感染者が増えないとどうして言えるだろうか。今後、爆発的に増える可能性は考えられないだろうか(Go Toキャンペーンなどという愚策を実行しようとしているわけだし)。

 こうした楽観論は非常に危険である。しかし、Twitter上は幻想の中。みんなが見たい夢を見ている。そしてその夢が壊されそうになると噛み付いてくる。安倍政権を批判するな!日本を差別するな!というふうにである。

 なんだかあきれちゃう!しかも友達がそういうこと言ってるのを見てると特にね!

 私の高校時代の友達がまさにそういうツイートをし、リツイートをし、いいねを押しているのでびっくりしている。まじかよ。。。orz

 まあそんなことはどうでもいいのである。本題は社会は価値について語らなくなったということである。

 「人それぞれだよね」という言葉は無敵だ。真理である。人はそれぞれいろいろな考え方、価値観、宗教、思想を持っている。それをお互い尊重しましょう。人に迷惑をかけない限りは。というのがある種お決まりになってきている。

 さらには価値を語るのはなんだかダサいという風潮もある。これは日本だと多分、1980年代くらいからだと思うが、政治なんかに熱くなっちゃってる笑とか社会問題に関心持つ奴ってさwみたいな空気が全体的に醸し出されている。皮膚感覚ではあるが。

 社会は価値に関して語ることをやめ、個人はミクロの世界に閉じこもった。実存にうじうじ悩み、恋人が、親が、友達が、趣味がどうだとかについて終始するようになった。そんな気がする。

 その結果がこのザマである。人々は自分の頭で考えられなくなり、トップダウンで決めてくれる政府にすがるようになった。

 選択するのはとてもストレスがかかる。難しく、めんどくさい。だから人々は個人を支える社会の方向性を政府に委ね、しょーもない恋愛笑、友情笑、趣味笑、仕事笑にひたむきに頑張るように見せかけるわけである。

 どうせそんな奴らの恋愛感、友情感、趣味、仕事などは他の奴らと大差ない。あまりをキョロキョロ見ながらなんとなく決めているだけである。思考停止に陥っているからだ。まあ偏見だけどさッ!

 学校では相変わらず30年前と変わらず知識偏重の画一的で周りと同じであることを強いる教育を行なっている。その結果、周りの人間とのポジション取りにひたむきに取り組み、マウントを取り、それが幸せであると思い込む人間が大量にでき上がった。そして、組織や集団内での役割や立場を自分のアイデンティティだと勘違いし、なんとなく窮屈だけどそれが幸せなんだと勘違いする連中を量産した。人々は与えられたアイデンティティを踏みにじられたくないから必死で抵抗する。自分で育てたものではないのに(この辺の話は安冨歩先生が詳しく書いている)

 とにかく自分の頭で考えられない人間は多い気がする。それは前述した、学校教育の影響が大きいだろう。自分の感性を殺し、学校に適応して行こうと努力したものほどその傾向が強い。私もまた学校教育を割と真面目に受けてきたので、自分の頭で考えられているかどうかは怪しい。

 こうして人々は思考停止し、価値を語ることをやめた。そして我々はまさに価値を語らなくなった社会が崩壊していく様を見ているのだろう。

 価値観を語ること=価値観を押し付けることではない。価値観の押し付けの究極はファシズム社会主義国家のような全体主義である。

 だから価値観の押し付けは避けなければならない。一方で価値観に無関心な社会は、そのまま社会の無関心につながり、政治の無関心、弱者の無関心につながりかねない。

 どうすればいいか。最近私が注目しているのがウィトゲンシュタインである。彼は論理哲学論考の中で「語りえないことは沈黙しなければならない」と記述している。これはアリストテレス以来の哲学は言語の混同によって引き起こされたのであり、哲学の役割とは言語を正しく使えているかどうかを指摘するのにとどまる。故に、言語の役割を超えた部分においては沈黙しなければならないとした。

 ウィトゲンシュタインは語りえる部分と語りえない部分の境界を引こうとしたのである。

 価値観とは語りえる部分に入るのか、入らないのか。語りえる領域に入る場合、どこまでがその範囲なのか。語りえない場合、社会に置いてもはや価値について話し合う必要はなくなるのか。

 それらが最近の私の関心である。私は経済学部に所属しているが、経済学の体系は価値論から始まっている。そうであるから価値について考えることは経済学について考えることになるだろう。

 まだ少し知識をかじっただけの人間である。何か根本的におかしなことを言っている可能性がある。その時はコメントで教えてほしい。

 果たして、価値とは語りえるものか、語りえないものか。語りえないのならば沈黙しなければならない。そして社会は崩れ落ちる。